
早いもので、大相撲はもう「九月場所」である。
今日から15日間の熱戦が繰り広げられる国技館の熱気とは真逆で、ほど近いがひっそりとした「富岡八幡宮」の境内には、「横綱力士碑」がポツンと建っている。
碑は明治33(1900)年に建立されたもので、ここには歴代横綱と新横綱の名が刻まれている。
もちろん横綱ではない力士が、この横綱碑に刻まれることはありえない。本来は。
しかし、ここになぜか一人だけ、横綱になれなかった「大関」の名前がたったひとり、刻まれている。
「無類力士 雷電為右衛門」と。
大相撲ファンの人なら、NHKの相撲放送の中でも度々伝えられてきたので、江戸時代に存在した「雷電為右衛門」という力士の名前ぐらいはご存知ではないだろうか。
ぶっちぎりの強さを誇っていた雷電だが、彼はなぜか横綱にはなれなかった。
このことは、大相撲の歴史における「闇」とも「汚点」とも言われている。
江戸に存在した未曾有の最強力士「雷電為右衛門」
「雷電為右衛門(らいでんためうえもん)」は、江戸時代の寛政から文化にかけて、ぶっちぎりの強さ、つまりあり得ない「生涯最高勝率」をもって土俵に君臨した大関である。
17歳で伊勢ノ海部屋に入門。後の横綱谷風梶之助の内弟子となる。やがて向かうところ敵なしとなると天明8(1788)年には松江藩に召し抱えられ、雲州ゆかりの四股名「雷電」を名乗った。
その翌年には師匠・谷風と小野川が同時に横綱免許を受け、翌年には雷電自身も西の関脇まで昇進。谷風が不在の時は、代理で興行の中心を務めるほどになっていた。

雷電を語る時、「史上未曾有の最強力士」とか「大相撲史上、古今未曾有の超強豪力士」とか、「未曾有」という言葉がよく使われる。彼はそれほど強かった。
力士生活21年。江戸本場所を36場所務め、現在とは場所数も日数も違うが、幕内通算成績は254勝してたったの10敗。96%という考えられない勝率で、これは大横綱大鵬の83%とも、最近の横綱として最も高い勝率を残した白鵬の85%とも、まるで比較にならない。
2分14預という今では意味不明が蛇足的に付されているが、「分」は引き分けのこと。「預」は勝負がつかない場合、相撲会所(今で言う協会)がその勝負を預かってしまうものである。ともに今なら「取り直し」で決着をつけるようになっている。
雷電は優勝相当の成績25回のうち、全勝が7回、44連勝を含むという驚異的なものであった。さらには、11場所連続の優勝相当成績もある。
あまりに強すぎて、得意技のテッポウ(今で言う突っ張り)、張り手、カンヌキを禁じられさえしたが
それでも、得意技を禁じられてもなお、雷電は勝ち続けたのである。




横綱になれなかったのは彼自身の忖度?
大関「雷電」が無類の強さを誇った中で、谷風が死去、小野川が引退し、いよいよ、そして明らかに「雷電一強」の黄金期に入っていた。
しかし、なぜか雷電にはついに横綱の声がかからなかった。
恐ろしいほどの強さでありながら、大関を27場所も務めたまま、綱を張れなかったのである。
雷電は横綱制度が確立する明治時代前の力士なので、横綱に推挙されなくても不思議はないと言う人がいるが、実際にはそれ以前に第4代谷風、第5代小野川の同時昇進を皮切りに、第16代西ノ海まで、制度確立以前に10人もの横綱が誕生している。しかも、雷電は谷風、小野川以降の力士なのである。雷電以前に5人、以降11人の前例があって、制度云々は全く理由にならない。
そこで、その理由について、今でもいろいろな詮索がある。
一つには、江戸時代のこと、雷電を抱える雲州松平家と、相撲司家を抱える肥後細川家が対立せぬよう忖度し、自ら横綱を求めなかったではないかと言われている。
横綱の称号を求めれば大名家同士の力争いに自ら火をつけてしまう。雷電は、それならば大関で十分と考えたのだろうと。生涯わずか10個の黒星は、小結柏戸以外の負けが全部平幕以下。「たまに平幕に負けてやれば観衆は盛り上がる」など、雷電の忖度があったというのだ。
突出した「文武両道」を周りから疎まれた?
他にもいくつかの指摘があって、その中には、大名のお抱え力士は美男が好まれたが雷電の容姿はそうではなかったという、今ではおよそ考えられない露骨な容姿差別説まである。

元横綱審議委員だった内館牧子さんは、「雷電は未曾有の強さの持ち主だったが、高い教養をも備えていたことが周囲から疎まれたのではないか?」と、かなり踏み込んだ指摘をしておられる。
雷電は明和4年(1767)、現在の長野県東御市の農家に生まれた。本名を関太郎吉といい、14歳の頃、現在の上田市の相撲道場に引き取られ、同市の長昌寺が開設した寺子屋では読み書きソロバンを習った。非常に優秀な子供で、四書五経をも学んだという。
読み書きができる人がまだまだ少ない時代であり、力士の大半は読み書き、ましてやソロバンなどには縁がなかった。その中にあって、雷電は『諸国相撲控帳』と『萬御用覚帳』、なんと2冊の著作まで残しているのである。
この2冊を1冊にまとめた『雷電為右衛門旅日記』(銀河書房)が、昭和58年(1983)に世に出たが、旅日記という形を取りながら当時の相撲社会を見事に描写されていて、その流麗な墨文字は見事の一語。雷電の並外れた知性と教養に、誰しも驚いたのだった。
読み書きソロバンを習い2冊の著作を残した雷電
この日記に関しては、享和元(1801)年の日記に書かれていることに関する内舘さんの解釈がとても興味深い。
「大社にて千家様にて土俵入相撲取り申し候」
これは横綱でもなかった雷電が「出雲の国造が用意した注連縄を付けて土俵入りを披露した」ことを日記に残した一文だ。おそらくこの『他言無用の横綱免許』は、墓場まで持っていかねばならないことだったに違いない。
内舘さんは、なぜその「他言無用」の行為を雷電自身が日記に書いたのかという疑問を持たれ、そしてこう投げかけている。
「横綱になれなかった彼が秘かに土俵入りをする。それは本人のプライドを傷つけないか。しかし、雷電は土俵入りをし、かつ、日記に書いた。おそらく、日記が公になるものとは考えていなかったのかもしれない。また、横綱になるべき雷電を、そうしなかった社会、関係者への抗議と怒りだったとも考えられる」と。
続けて「他方、雷電を横綱にしなかったことは、後世の関係者もずっと引っかかっていたように、私は感じてならない」とも。
そうだよね、内舘さん。はっきり言おう、「大人のイジメ」だったんだよこれは。
でも、残念ながら世の中はこんなこと「あるある」だ。石破さんを退陣に追い込んだ「総裁選前倒し要求」も見るに耐えない大人のイジメの「やり口」であったろう。
史上最強力士「雷電」のふる里
道の駅「雷電くるみの里」は、雷電が生まれ育った長野県の旧東部町(現東御市)にある。

高速道路を利用するなら上信越道の東部湯の丸ICから県道79号線沿いに西に約2キロ。道の駅は高速道路の真横にある。
天気がとても悪い日だったが、駐車場にはそこそこの台数の車が。


トイレは場所も分かりやすく、使いやすく、そして綺麗だった。




休憩環境としても好印象。施設の内外ともにゆったり休める。





道の駅の名の中には2つのキーワードがある。
1つは「雷電」、もう一つは「くるみ」だ。
雷電については詳しく触れたので、「くるみ」について少し詳しく。


くるみは、くるみでも「信濃くるみ」である。
「信濃くるみ」は、道の駅の物産館とレストランで存分に味わうことができる。
物産館では殻つきのくるみを始めとして、くるみを用いた菓子の「くるみ最中」「くるみ饅頭」「くるみロマン」「くるみの初恋」 「雷電くるみ餅」等が販売されている。「くるみの初恋」はクルミを最近流行りのメレンゲでコーティングしたもので、人気上昇中の商品である。
くるみは、血中コレステロール値や中性脂肪を下げる効果があるらしいので、私などは毎日このぐらい食べた方がいい?


もちろん、工芸品から農産物、加工品を含めて「くるみ」以外の特産品はたくさんある。










レストランでは「くるみおはぎ」「くるみすいとん」「くるみだれ付き手打ち蕎麦」「くるみ天ぷら」「くるみ味噌カツ定食」等、 くるみを用いたメニューが数多くある。
上記メニューに加えて、さらに蕎麦、すいとん、焼き魚定食などと迷いに迷った挙句、カレーにした。なんのこっちゃw




「雷ちゃんカフェ」の一番の人気は「くるみソフトクリーム」。
アイスの中にくるみの粒が入っていて歯触りも良く、とても美味しかった。
ただ、このソフトクリームはコレステロールや中性脂肪を下げるのか上げるのか?それが気になった。
