今でいう詐欺師「毛利元就」が尼子氏を騙しに行った、その道中にある道の駅「掛合の里」へ(トイレ◎仮眠◎休憩◎景観○食事○設備△立地○)

「神仏の通ひ路」を、戦国時代の詐欺師「毛利元就」が大手を振って通っていたなんて、神仏への冒涜、道が汚れるっちゅーの!

まあ、それほどに、私は「戦国時代の詐欺師」毛利元就が嫌いだ。

戦国時代の城攻めの中で、謀略や策略を用いた「調略」は、戦に勝つための手段のひとつではあった。

「調略」とは策略・謀略を意味するが、元就がもっとも得意とした、いわば当時の「特殊詐欺」は、敵にニセ情報を流したり工作を仕掛けて疑心暗鬼に陥らせ、主君に家臣を疑わせて殺させるという、まさに人間の弱みにつけ込む手口だった。
いくら命の取り合いをしていた時代でも、いや、命の取り合いをするからこそ、そういう卑劣なことをして人の命をとる人間はどうしても好きになれないのだ。

毛利元就は、敵方の内情を調べ尽くし、相手の弱みに応じて様々なニセ情報を流し、組織の混乱や裏切りを狙うこの手法の専門家で、「謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負け」と嘯いた。

ただ、詐欺が上手いだけの人間が、何を偉そうに。

正攻法では強くない元就

永禄8年(1565)、元就は孫の輝元の後見役という立場ながら毛利家の実質的な主として、出雲尼子義久の本拠・月山富田城攻めを開始した。

元就には、難攻不落の月山富田城を正攻法で落とす力はまったくない。
月山富田城は峻険な山城で、天文12年(1543)には尼子氏が3倍の兵数を擁する大内軍を撃破したほどの難攻不落の要害である。
元就も3万の兵力で城を包囲。4月には、1万の尼子軍が籠もる月山富田城に3方向から総攻撃を仕掛けたが、跳ね返されて全く埒が空かなかった。

一旦兵を引いた元就は9月になって再度城を囲んで、今度は「兵糧攻め」を行う。

完全包囲により補給路を遮断され、兵糧の欠乏に悩む富田城の兵が降伏を希望しても、元就は「降伏も退去も許さぬ」とする高札を立て、さらに封鎖を厳重化して大人数を収容する城内の兵糧が1日も早く底をつく様に仕向けた。

そして、ついに兵糧が尽きたと探知すると、元就は、今度は一転して「降伏も退去も認める」と告知したのだ。

これは、兵糧切れの目的を達したことで次は城内に「誰が逃げ出すか、誰が裏切るか」という互いの不信感を抱かせようという心理戦である。

必死の覚悟を決めた人間は「敵を1人でも道連れにしよう」と士気を高めるが、逆に「降伏や退去で命が助かるかも知れない」という気持ちが芽生えれば、死ぬのが嫌になって士気は一気に萎える、それが人間というものだ。

人間心理につけ込んだ元就の卑劣な揺さぶりに、尼子方の有力武将のうち家老の牛尾幸清・亀井秀綱・佐世清宗らがまず降伏。牛尾豊前守などは妻から「侍は渡り者にて候ぞ」と説得されて毛利方に降ったというから、将兵だけでなくその家族もすでに命が大事と、すでに戦意を失っていた。

主君に忠臣を斬らせるための「謀略」

筆頭家老の宇山久兼は私財を投じて海から兵糧米を城へ運び入れるなど、籠城戦の中で貢献し、城兵に配付していたその補給路も断たれて以降は、投降しようとする兵たちを必死に説得。なんとか押しとどめて自分の配下に属させていた。

退去する者も後を絶たずという状況になると、残った城内の者たちにはさらに深い猜疑心が生まれる。

かつて元就は、陶晴賢との戦いに臨んで、江良房栄という晴賢の重臣が自分に内通しているという噂を流し、無実の房栄を晴賢の手によって殺させているが、元就はここでも、その手を使った。

『老翁物語』には久兼が元就に調略されて寝返りを考えていたとあり、また元就の家臣・天野隆重も「久兼に対して他の尼子家重臣たちの土地を与えると元就が約束した」と久兼の子に書き送っているなど、久兼の裏切りを思わせる動きが残っているのは、元就がわざと久兼への工作の情報を漏れさせて、主君の義久に久兼を誅殺させようと試みたものだった。

疑心暗鬼に陥った中で、元就の調略によって、「筆頭家老の宇山久兼が毛利軍に内通し兵を集めて内側から城を攻めようとしている」とされてしまい、最後まで踏ん張っていた宇山久兼は主君の尼子義久に殺されてしまったのである。

徹底的に相手を騙す元就の調略によって尼子は完全に分裂し、久兼の子・善五郎も義久を見捨てて降伏し、外から難攻不落にして内部から崩れた月山富田城。

永禄9年(1566)11月、尼子義久は開城降伏し、尼子家は滅亡した。

毛利元就ファンは、特殊詐欺の容認者か?

ところで昨今、高齢者をはじめ、騙されやすい人を狙った詐欺が横行している。

私の父も母も詐欺師に騙されて、なけなしの退職金などを騙し取られたが、今の世の中、これほど詐欺被害が拡大しているのは、なぜなのだろう。
一部に「騙される奴が悪い」との向きがあるが、それは違う。

人がよく、人に疑いを向けない、あるいは高齢で人に言われるまま、判断ができなくなっている人が、悪人に騙されて、それでも「騙されるのが悪い」のだろうか。

騙す方が悪い、騙す奴が悪人に決まっているだろう。

そういう意味でも、「謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負け」と嘯く毛利元就に、「三本の矢」程度しか知らない歴史音痴であったり、あるいは勝つためには手段を選ばずの、一定の支持者がいることは大変残念で、悲しいことである。

人を騙すのが上手なだけの奴が、地元の有名な人物かなんか知らないが、あるいは町おこしかのためか何か知らんが、人格や人間性抜きにもてはやされたり讃えられたりするこの世の中、どこか根本的に間違ってはいないか。

実質的道の駅第一号「掛合の里」

戦国時代、毛利元就が出雲に拠点を構える尼子氏を攻める際の進攻ルートとして使ったのが、「宍道尾道街道」だ。総距離18里8丁(約71.6km)のこの街道は、松江市宍道町を起点として現在の国道54号にほぼ並行するかたちで雲南市を通り、飯南町の赤名峠まで続く。
道の駅「掛合の里」はこの街道の途中、行き方としては松江自動車道(無料区間)の吉田掛合ICから県道38号線〜国道54号線を北東に7km。島根県南東部の旧掛合町(現雲南市掛合町)にある。

実は、1993年4月22日に登録された日本で第1号の道の駅である。

同じ日に全国で103の道の駅が同時登録されているので、103の道の駅全てが「第1号」を名乗る資格はあるにはあるのだが、 この道の駅「掛合の里」は、道の駅登録の3年前にドライブインとして先行オープンしており、 その後の道の駅の見本ともなったことから言えば、実質的に「道の駅発祥の地」と言っても誰からも文句は出ないだろう道の駅なのだが。

「道の駅発祥の地」を名乗る道の駅は、全国を探してみれば「豊栄(新潟県)」、「阿武町(山口県)」などががあり、 この両駅には「道の駅発祥の地」の石碑やモニュメントが堂々と設置されているが、道の駅「掛合の里」にはそのようなものが見当たらない。

駐車場もガラガラだし、立地上、訪れる人が少なくて困っているなら、もっとガツガツ「道の駅発祥の地」をアピールしたらいいのに。

毛利元就が道の駅の運営者なら、「発祥の地」どころか、「人を集めるための嘘八百」を並べ立て、手段を選ばず多くの人にネットでフェイク情報を流しまくって道の駅に誘導することだろう。

知らんけど。

道の駅の施設は、物産館、農作物直売所、そしてレストラン。至ってシンプルだ。

トイレは、この辺りは森林地帯。木をふんだんに使った、とてもいい感じのトイレ。古さを感じさせない。

休憩環境としても、天井がとても高い立派な施設の中は、空調もバッチリ効いていて、畳なども敷いてあって、すごくいいと思う。

二人の女性が、すごく居心地がいいのだろう、私が来た時から帰るまで、ずっと同じ場所に座っておられた。

道の駅の物産館は、客数の割には商品の種類や数が非常に充実している(失礼)。

島根県全般の土産品、市町村合併後の雲南市全般の特産品、旧掛合町地区の特産品も販売されている。

特産の木炭や陶芸品なども多く販売されている。

島根県全般の特産品としては銘菓「大風呂敷」「どじょう掬いまんじゅう」「因幡の白うさぎ」などがあるが、それらは全部揃っている感じ。

雲南市全般の特産品には、木次町の桜を配合した「さくら麺」、旧吉田町の「吉田のパスタ」「紅梅しょうゆ」「竹下しょうゆ」など約20種類が揃っている。

掛合地区の地元の和菓子店「吉原亀栄堂」のたまご饅頭、プリン饅頭、味噌饅頭や、「荏胡麻ようかん」「桜ようかん」「しそようかん」も、とても美味しそうだ。
道の駅オリジナルの商品としては、雲南市産の山椒にジャコと海苔を加えた佃煮「雲南山椒じゃこのり」に、雲南市の名物として市の生産者や観光協会が一丸となって開発した新商品「梅ビリサルサ」が加わって、ダブル名物になっている。

農作物直売所では、掛合地区の新鮮野菜や果物が、30種類程度だろうか、販売されている。

レストランのメニューはオーソドックスなもので、ほとんどのメニューが1000円で統一されている。もちろん、ぶっかけうどんやお子様カレーなどはもっと安い。