リクルート同期の奥村耕三と、いよいよ耕三の隠れ家「なわない」へ。過去〜現在〜未来へと尽きぬ話の備忘録第2章

あらためて。持つべきは同期である。
私と一緒に1982年、リクルートに入社した耕三は元々京都の人間だが、住まいを広島に移してから、もうどっちが長いかいい勝負ではないかな。
そんな長い広島生活の中でも、彼にとって最高ランクの店に次々に連れて行ってくれたのだが、その3軒目は、いよいよ耕三の「隠れ家」。

そもそも「同期」の何がいいって、同じタイミングに社会に出て、入社動機から退職動機、その後の人生まで、話題が尽きないことで、そういう意味でもいよいよこれからが本番だ。

以下、あらためて。
「備忘録」なのでワイルドな言葉遣いはそのままに、生々しく残すことをご容赦願いたい。会話の「太字」が耕三、「細字」が私の言葉である。

異動の嵐吹くリクルートでは珍しい7年もの協働

耕三と私は、1982年4月にリクルートに入社。大雑把に言えば、当時「西日本統括部(通称にしとう)」の京都配属となった耕三、神戸の私と佐藤博幸、そして愛しの藤江まびなの3人が同じ部の同期だった。その後、京都も神戸も関西広告事業部の所属となったが、耕三と私は結局私が東京に異動になるまで、7年近く同じ部で働き、つまりは同じ釜の飯を食った仲。
異動が激しいリクルートにあって、とても珍しい同期二人の長期的関係だと思われる。この間、耕三と一緒に台湾を旅行したり、プライベートでの付き合いにも濃いものがあった(笑)。
その後私が先にリクルートを辞めてからは流石に会う機会が限られたが、こうして久しぶりに会っても、すぐに一緒に走り抜けた1980年代に戻ることができるのは、あの時代ならではのブラックそのものなハードワークがあったからだろう。

3軒目、耕三の隠れ家「なわない」で悪口肴に痛飲

耕三は3軒目、ついに、彼曰く「最高の店」、とっておきのカードを切ってくれた。
入り口からして、まさに「隠れ家」。

「なわない」という店だった。

「にしとう時代は、楽しかったな。それからバブルが始まって、関西広告事業時代はお互い死ぬほど働いた」

「土屋部長が苦手でさ。ちょっと離れた京都にいたから気は狂わなかったけど、あの陰湿なハラスメントを受けて、正直、危なかったよ俺」

「俺なんて、土屋と同じフロアやで。大手の取材に行くと先方へのご挨拶で連れて行ってるのに必ず社長の前で居眠りしやがって、私が坂口靖子の取材に行くと聞きつけると、断ってもついてきて、目が爛々と輝き、鼻の下伸ばして一人で勝手に喋りまくって、こっちは取材にならんかったし。毎日朝から深夜まで、やってもやっても仕事が終わらんで、部下たちがどんどん倒れ、また会社を辞めていくのに放ったらかしでマイペースで映画観に行くだの、加古隆のコンサートに行くだので早々に退社するしな。みんな土日もなく働いていたのに、自分は週末はゴルフときたもんだ。で、普通原稿はライターさんに外注するわけだが、ライターさんたちもパンクして。ライターさんたちは早死にする人が多いのは、あの頃の蓄積疲労、睡眠負債が原因だよ。で、ライターさんの手は全部部下に回してたから、プレイングネジャーとして抱える自分の仕事は全部自分で原稿書いてたわ」

「そんなお前が東京に行ってからも、俺は京都に残って、佐藤は新大阪。引き続き最悪の土屋体制、一緒に苦労したよ」

「神戸の山田滋さんなんか、土屋の顔を見たら死ぬ、なんて言って、部の大事なマネジャー会議を前欠席したという徹底ぶりやった」
「俺にはそんな、山田さんみたいに思い切ったことはできへんわ。育ちがいいからか、性格が根っから優しいからな」

「で、土屋以上の最低上司はないと誰もが思っていたら、その後さらに最悪の、上司としても人間としても最低のセクハラ大王・藤田洋がセクハラで関西に飛ばされて、お前の上司になってな〜」
「ほんま最悪やで」

耕三の「お・も・て・な・し」

耕三は、次々に、この店でしか味わえない名物料理を注文してくれた。
私は、自分が飲む酒をビールから芋焼酎に切り替え、その銘柄を選ぶだけ。酒ならなんでも飲む大酒飲みの私だが、美味しい料理と合わせるときは、必ず芋焼酎なのである。
おひたし、バイ貝などをいただいて、真ん中は「明太卵」というここの名物。明太子がマイルドで、卵との相性が抜群。最高に美味しかった。

耕三が、お前にはこれを食わせたくてな、と言いながら焼いてくれ始めたのが、コウネだ。

コウネとは、牛肩肉の珍しい部位で、「ブリスケ」とも呼ばれている珍味である。

焼いてくれるのは耕三。
「塩胡椒で味付けしてあるコウネを、七輪でさっと炙ってな。でも、ちゃんと火を通さないと危ない部位なので、俺がこうして焼いてあげるわけ。お前、食いしん坊やからほぼ生で食っちゃうからな、流石のお前でも、これがあたったらきついで」

耕三焼いてくれる人、私食べる人。
見た目よりとてもあっさりしていて、芋焼酎が進んで仕方ない(笑)

「どうや?美味いやろ」とドヤ顔の耕三。

酒もどんどん進み、昔話も一段落。話題は、今のこと、そして未来のことへ。

仕事はいつまで?死ぬまで何する?

「ところで耕三、お前66歳やろ?まだ仕事してるんか?」

「いや、俺をまだ必要としてくれるクライアントは2社あって、そことのお付き合いを残してはいるが、あとの仕事は全部手放したよ」
「俺も、蔵野さんの財団でミュージシャンの支援をやってて、それを手伝わせてもらってるのと、あとは旅先でできるリモートワークだけ。コロナで、経営コンサルとしての最後の仕事が吹っ飛んだから、コンサルはそれで引退した」
「時間が売るほどあるもんだから、長女が住んでいるポーランドにはしばしば行っててな。長女夫妻も、今回みたいにしばしば帰ってくるし。次女と三女は日本にいるけど、それぞれもう手がかからないわけで。ポーランドで遊ぶのが今の楽しみよ」
「ええなあ、俺は国粋主義と言えばその通りではあるが、まあ、飛行機が大の苦手でな。もう外国には行かんかもしれん。まびながオーストラリアのブリスベンにいて、「遊びにおいで」と言ってくれるけどなあ。飛行機がなあ。覚えてるやろ、一緒に台湾行った時も、俺、酒をがぶ飲みして泥酔状態で飛行機に乗り込んで(笑)」
「そうやったなあ、それで、今も北海道であろうがどこであろうが、車で移動してるわけねでも、一度ポーランド行こうぜ。美術館も素晴らしいし」

「へえ、耕三お前、絵に興味なんかあったわけ?」
「バカにするなよ、俺だって、美術館ぐらいは行くよ。さっぱりわからんけどな(笑)」

「美術を頭で理解しようとする人が多いな。大体の人が、他人の受け売りで、ゴッホやらセザンヌやらピカソやら北斎やら若冲やら草間彌生やら、とにかく有名なら素晴らしいと思う。ほんとは、自分が感動したりできる作品には価値があって、そうでないなら、ほとんどの美術作品なんてゴミ同然よ」
「お前、せっかく芸大行ったのに、絵は描かへんの?これから何歳まで旅をするつもり?」
「あと10年旅をして、まだ生きていたら免許を返納して、旅先で印象に残ったもの、人とか風景とか、その「ゴミ」のような絵を描いて。俺の人生、回り回って、最後は画家やな。ところで耕三、お前、昔から顔も体型も全く変わらんなあ」

「ああ、リクルート時代が一番太ってて、それでも62キロ。そこから、もう何十年もかけて毎年少しずつ、数十グラム刻みで痩せて、今は57キロや。太れん体質なだけ」

「ひゃー、なんとストイックな。俺はいま77キロ、心筋梗塞で倒れた時は94キロあった。お前は長生きできるで」
「そういうお前のお父さん95歳、お母さん89歳でご健在。お前も長生きして、末長くよろしく頼むよ」

「親より先に死なないだけが目標で、あとは野となれ山となれ、まあ、自分の墓の用意も終わったし。ろくな世の中じゃないと、若い人から批判されても、そんな世の中をつくったのは、65歳まで現役やってた俺たちであるわけで。死ぬまでこちらこそよろしくな!」
「結局、俺たちが世の中に対してやってきたことって。決められたこと、つまり所得税とか住民税とか、国民年金とか厚生年金とか、健康保険とか介護保険とか、ずっと怠らずに納め続けてきたってことだけだったのかもな」

「御意!」

「なわない」を出る時には、二人はもう完全に仕上がっていた。
耕三を写すカメラのレンズもまた、酩酊状態になっていたようだ?
(しつこくつづくが次回が最終話)