
中国地方の山は、大山だけじゃない。
大山隠岐国立公園には、主峰大山に隠れて幾つかの名山がある。
岡山県の県北、岡山県では唯一の村、真庭郡新庄村にあり、鳥取、岡山県境線に大山と対峙して位置する毛無山、その名も「けなしがせん」もその一つ。標高は1,218mある。

毛無し、もとい心なしか、頭頂部を雲で恥ずかしげに隠しているように見えるのも、私の自意識過剰かもしれない。しかし私の頭がこの山の名前そのものなので、昔から気になっていた。
しかも毛無山南斜面は「特別保護地区」に指定されていると言うではないか。なので、ここは相当にハゲ散らかした山だと、勝手に思い込んでいた。
事実、この山は元々民間の林業会社の所有であり、スギの大木がたくさん生育しているので林業的価値は高く、毎年のように伐採の申請が出され、木が切り倒され続けてきた。なんとそれらはほれぼれするようなすばらしいスギであり、林業会社が自分の所有している森なので、伐採し放題だったのだ。
しかし、これほどの森林は岡山県はもちろん、中国山地にもほとんど残っていない、それほど見事な森林だったため、これ以上の伐採はいかがなものかと考えた岡山県は、この地域を買収することを決断。平成6・7年に中心部の197ヘクタールを森林会社から購入した。子孫に残す自然として、伐採をさせないために購入することを決めた岡山県の「英断」に拍手を送りつつ、毛無山に行ってみた。
大山や日本海、吉備高原の山並みを望む
毛無山に向かう道中、やはり名前の由来が気になって調べてみると、全国に毛無山はたくさんあるようで、ならばいったい誰が、どんな理由でそんな名称を付けるのだろうと、ますます気になってしまった。
まあ、そんなことはともかく、到着してみれば、毛無山は素晴らしいところだった。
まず、毛があろうとなかろうと、いや毛がフサフサだからこそ、毛無山は、「水源の森」として地元の人々に恩恵を与え続けてきた。山が数百年、いや数千年の時をかけて作り出したブナ林は、岡山県三大河川のひとつ「旭川」へと流れる豊富な水源の森だった。


写真上は男滝、下が女滝。水源「毛無山」の水である。



天然杉の大木とブナ林など長い年月を経て作り出された毛無山の森林は、岡山県でも第一級の自然度の高さと規模の大きさを誇り、平成14年3月には、この地域一帯が大山隠岐国立公園に編入されている。



頂上からは360度の展望が開け、北は大山や日本海、南は吉備高原の山並みを望むことができ、特に大山を目前にする景観は圧巻、蒜山三座と続く連山、東西に延びる山脈の光景は実に素晴らしい。

遠く、弓ヶ浜まで見える!
冒頭に触れたが、岡山県の英断で、後世に原生な自然が残されることになった毛無山。
歴史を振り返れば、かつて山麓では「たたら製鉄」が行われていた。当時は製鉄用の炭を生産するために森林が強度に伐採されたはずで、山裾の尾根は、森林会社の伐採とは別にかなり削り取られた痕が残っている。
はからずも、人間の営みと自然の保護について考えさせられる毛無山訪問となった。
明治5年の村政施行以来一度の合併もない村
岡山県新庄村は岡山県の西北端に位置し、中国地方の尾根にあたる「毛無山」を主峰とした1000m級の美しい連山に囲まれている。
村の面積は67.10㎢で、そのうちの91%を山林が占めていて、気候は「日本海側」に属し、平均気温は11℃と低く、降雪期は12月から3月までと長い。近年地球温暖化が進む中、かなり積雪量も多い地域だが、明治5年の村政施行以来一度の合併もなく、大字(おおあざ)がない、大変珍しい村である。
ご存知「大字」とは、「おおあざ」と読まれ、日本の住所表記で使われる言葉だ。明治時代の市町村合併の際にそれまでの村や町の名前をそのまま残すために使われ、市町村の下の地域区分として存在する。さらに細かい区画である「字(あざ)」の上の単位だ。その「大字(おおあざ)」がないということは、つまりは明治5年の村政施行以来一度の合併もないという村の歴史を物語っている、ということになる。
また新庄村は、古くは山陰と山陽をつなぐ出雲街道の宿場町として栄え、現在もそこに人々の生活が営まれながらも当時の面影を残している。
古くから林業、水稲、和牛で発展してきた村だが、現在は人口850人程度しかいない過疎の村となっているが、それでも林業と水稲、特に「ヒメノモチ」の生産を中心に、これ以上の過疎を食い止めようと村民たちは頑張っている。
未来に残したい新庄村の特徴
夏の昼と夜との温度差が激しい新庄村は、美味しい餅米の生産には最も適した気候条件であるらしい。
そんな新庄村全域で生産されているのが「ヒメノモチ」 だ。 新庄村の全世帯数は380ほどだが、そのうち80世帯が「ひめのもち」の生産に関わっているという。

新庄村の「ヒメノモチ」は、旭川の源流であるブナの原生林「毛無山」一体から湧き出る清流、肉用牛の有機堆肥に恵まれた大地と澄んだ空気から生まれた、特産の餅米である。
また、出雲街道の宿場町として栄えた街道沿いに、明治39年、日露戦争の戦勝記念として137本のソメイヨシノが植樹された。ゆえに「がいせん桜」と命名されたこの桜並木は、百数十年もの間、毎年きれいな花を咲かせ続け、多くの観光客を楽しませてきた。
通りのなかほどには、江戸時代に脇本陣として使用された、村指定重要文化財の「木代邸」があり、三列六間取りの大規模な家屋、その入口の「馬つなぎの環」や便所の刀掛けなど、当時を忍ばせるものを随所に見ることができる。
「メルヘンの里新庄」改め「がいせん桜 新庄宿」
米子自動車道の蒜山ICから県道58号線を南西に15km、あるいは湯原ICからは県道55号線→国道181号線を西に19km。岡山県北西部の新庄村に、道の駅「がいせん桜 新庄宿」がある。





この道の駅は、「メルヘンの里新庄」という名前で、20年前、1995年にオープンした。
当時の村長が「道の駅付近一体をメルヘンチックにして観光客を呼び寄せよう」という、ど素人丸出しの構想を打ち出してのスタートだった。
その「新庄村メルヘン構想」は「どすべり」し、2018年4月に本駅の全面リニューアルが行われた際に「がいせん桜 新庄宿」に改称している。「がいせん桜」に着いてはすでに触れたが、道の駅の300mのところにある江戸時代の面影を残す街並みに、もう百数十年前になるが日露戦争の凱旋を記念して5.5mおきに137本の桜を植樹したもので、 4月中旬に開催される「がいせん桜祭り」には全国から数万人の観光客が集まってくる。
ちなみに「どすべり」したメルヘンの名残として、道の駅から500m北にある新庄村役場が「メルヘンの里の面影」を残したヘンテコな建物として残っていたが、やはり恥ずかしい過去を消し去りたいのか村役場は解体され、2023年に新しい建物に変わってしまった。ネット上でもかつてのメルヘン庁舎の画像はどんどん消され、残っている一枚はこれだけ(笑)。写真の建物の左側が「メルヘン庁舎」だった。

小倉博俊村長はすっかり普通の建物になった新庁舎完成式典で、「村民の夢と希望をのせた、50年、100年先も後世が誇りに思える新庁舎になることを願っている」と、かなり自虐的?なあいさつをしたのが面白い(笑)。
特産品は「ひめのもち」
駐車場は、こんな感じ。ただ、「がいせん桜」が咲く頃は、この道の駅の駐車場は溢れかえるはず。

トイレは、とても綺麗なデザインで、清潔感が溢れている。



休憩環境としては、館内外ともに素晴らしい。




毛無山に登らなくても、300メートルほど先には新庄宿の街並みがあり、少し足を伸ばしせば新庄神社もある。周辺の見所はとても多い。




物産館に入ってみよう。

道の駅の物産館でまず目につくのは「ひめのもち」。

白餅、紅白餅、豆餅、しゃぶしゃぶ餅が販売されている。
ひめのもちを使った餅は「伸び」がいいそうで、餅を箸で持ち上げると軽く30cmは伸びるという。
口当たりの柔らかさと甘味もいいということで、店員の方がお勧めしてくれたのは「しゃぶしゃぶ餅」。 お湯を掛けると瞬時に柔らかくなる「しゃぶしゃぶ餅」は、調理が楽で、うどんに乗せて「力うどん」にするととても美味しいとのこと。買わせていただいた。


「ひめのもち」を使った商品は「餅」だけではない。
もち米入りのうどん、ラーメン、豚まん、さらにはスイーツにも「ひめのもち」が使われていて、 「ひめのもち」が入った「割れチョコ」「大福」「団子」なども人気を集めているという。
村の観光資源「がいせん桜」をイメージした商品も「桜のクリーム大福」「桜のクッキー」「桜寒天」「桜葉せんべい」「桜羊羹」「桜まんじゅう」「桜きんつば」「桜ブッセ」等々、数多い。





レストランでも「ひめのもち」を

道の駅レストラン「村の食堂」でも主役は「ひめのもち」だ。
一番人気は「牛もち丼」。 牛丼の中に「ひめのもち」が3つも入っている。牛肉と餅という珍しい組み合わせだが、柔らかくて伸びの良い「ひめのもち」は牛肉とも相性抜群。 牛肉を餅で包むようにして食べると最高だ。
ひめのもち米粉が入った「うどん」や餅が入った「ひめっ子雑煮」はモチモチ感倍増。
甘党の方には「ひめっ子ぜんざい」もある。