
「嵩山」と書いて「たけやま」と読む。
死者の霊が山上に集まるといわれる霊山だ。
天狗が住む山とも言われ、山の3つのピークにはそれぞれ大天狗、中天狗、小天狗の名前がつけられている。
嵩山は標高789mの独立した姿の美しい山で、渋川方面から吾妻街道、国道353号を中之条町に入ったあたりから巨岩奇岩が天を突く嵩山がチラチラと姿をあらし始める。
東南面は切り立った岩肌、西北面は見渡す限り見事な樹海が広がっている。
そして、中腹の天狗の広場まで上れば、そこからでも手前に中之条の街並み、遠方に榛名山が見える。
元服前の少年が崖から身を投げた頂上からは、近くの山々の向こうに「白根」「四阿山」「浅間」、そして遙かに上信越高原国立公園一帯が一望のもと、絶景が広がるという。
でも、私は頂上の、崖からの景色は、見たくない。

嵩山の天狗の広場から見えるこの景色で十分だ。
岩櫃城の前衛城としての嵩山城
ここにかつて岩櫃城の前衛城とされていた嵩山城があった。築城時期は不明である。
永禄6年(1563)、真田幸隆率いる武田軍の上州先方衆の急襲によって、まず岩櫃城が落城した。
城主の斎藤憲広、憲宗父子は越後の上杉謙信を頼って落ち延びたが、末子の城虎丸(じょうこまる)は嵩山城に立て籠り、中山・尻高などの支援を受けて真田勢と対峙して岩櫃城奪還の機会を伺った。
永禄8年(1565)年10月、城虎丸の兄・憲宗が越後から戻って上杉氏の援助のもと2千騎を集め、岩櫃城を奪った真田幸隆を攻撃する。
まだこの城での戦いには不慣れである幸隆は知恵を巡らせ、憲宗に対して「岩櫃城への帰還を許す方向で信玄に取り成す」と嘘をついて一旦和議を講じる。そして、その裏で富沢但馬入道らを嵩山城に派遣して城虎丸の家臣、池田佐渡守重安を内応させる、つまり裏切らせることに成功するのである。
嵩山合戦
憲宗は池田の裏切りを知って激怒し、即、11月16日に岩櫃城五反田の台で激突。
真田方は150、嵩山勢は200の兵を失ったあと、夕刻に戦闘の舞台は嵩山城に移った。
翌17日に激戦の末、嵩山城は落城した。この戦いを「嵩山合戦」という。
斎藤憲宗は自刃し、まだ元服前の少年であった城虎丸は、「大天狗岩」から身を投げて自害。
ここに斎藤氏は滅亡した。
この嵩山城の陥落は武田信玄にとっても真田幸隆にとっても非常に価値が高く、信玄は内通して城の攻略を助けた敵将、裏切り者の池田佐渡守に感状を与えているほどだ。
ここが吾妻・西上州攻略のための重要拠点であったことは、この嵩山城の陥落で、箕輪城の長野氏はたちまち追い込まれ、翌年箕輪城があえなく落城したことでもよくわかる。
霊山・嵩山に上っていく途中の道の駅
道の駅「霊山たけやま」は、関越自動車道の渋川伊香保ICから北西方向に27キロ。 群馬県北西部の中之条町にある。

中之条町は一応、吾妻郡の中心都市とはいうが、人口は1万7,000人ほど。 道の駅は町の中心部から北方の山に向かって3kmほど車を走らせる。 その県道53号線の交通量は極端に少なく、なんでこんな所に道の駅を作ったのか不思議になるような場所である。


道の駅の向かい側には「親都(ちかと)神社があり、駅からは2つの尖った岩肌が特徴の嵩山を、ま正面に見ることができる。
駐車場、トイレ、休憩環境は?


道の駅の駐車場には私の他に数台の車が停まっていたが、道の駅には人っ子ひとりいなかったので、それらはハイカーの車だろう。夜など誰もいない中での仮眠は、霊山だけに怖い。
本駅の目の前に見える標高789mの嵩山は、人気のハイキングコースとなっていて、 本駅の駐車場の奥にある表登山道から坂道を登れば20分程で「天狗の広場」と呼ばれる展望台に行ける。この天狗の広場からの眺望でも素晴らしいわけで、おそらく頂上からの眺望は絶景であるに違いない。
さらにここから岩場を登って行けば、、東の峰の「大天狗」、中の峰の「中天狗」、西の峰の「小天狗」の三つのピークに行くこともできるが、元服前の子どもが身投げした史実が残る崖に行き気にはどうしてもなれない。
ということで、私はここから引き返した。
トイレは古風だが、いいトイレだ。引き返してきてからもお世話になった。



今日は完全に独り占めしているが、こんな贅沢な休憩環境、休憩時間はちょっとないだろう。



古民家を利用したそば処が人気
道の駅の施設は、農作物直売所を兼ねた物産館、そば打ち体験施設、そしてそば処。
特に古民家を用いた茅葺屋根の建物が特徴のそば処は人気らしい。



物産館では地産の農作物と特産品の販売を行っている。

