
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ…」
日本語とは、かくも美しいものかと感嘆させられた島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の冒頭だ。中学校の修学旅行で最初に接してから半世紀以上、ずっと頭にあって、時折誦じてもいた。
藤村は、小諸城址・懐古園をよく訪れていた。
『千曲川のスケッチ』には、小諸義塾の同僚たちと連れ立ってここに弓を引きに行ったことを書いている。当時園内には十五間ほどの矢場があって、藤村は弓を茶屋(現・山城館)に預けており、訪れるたびに茶屋には顔を出していたようだ。
冒頭写真は水の手展望台から望む小諸城址・懐古園。ちなみに戦時中に小諸に疎開してイジメを受けた永六輔はこの水の手展望台からの風景を見ながら、永遠の応援ソング「上を向いて歩こう」を作詞した。
そして藤村の「千曲川旅情のうた」に詠われている“古城”は、もちろん小諸城址・懐古園のことである。
小諸なる古城のはじまり
小諸城趾は浅間山の南麓に位置し、南西は千曲川の断崖、北は地獄谷、南は南谷に囲まれた丘陵地の最端部にある。
小諸城は「穴城」と呼ばれるのは、縄張りは城下より低い場所に位置しているという特殊な地形に存在するためである。

ここは中山道、北国街道の中継地であり、古くから北信、南信、上州を繋ぐ交通の要衝であった。
平安末期に源義仲の挙兵に従った武将のひとり小室光兼が後に源頼朝に仕え、この地に宇頭坂城を築いたのが小諸城の起源とされる。
その後南北朝時代に小室氏は衰退し、大井光忠が1487年宇頭城跡を整備して鍋蓋城を築き、その子が出城の乙女坂城を築いた。
さらに1543年には武田信玄がこれを攻略し、山本勘助らに命じて鍋蓋城・乙女坂城を取り込んで拡張整備した。
小諸なる古城に兵どもの夢は散って
天正10年(1582年)、織田信忠を総大将とする武田討伐の織田軍3万が伊那口より北上すると、武田信豊を総大将とする武田軍5千は上原城から木曽谷制圧に向かった。
信豊は、のちに中山道最大の難所と言われるようになる鳥居峠の合戦で木曽義昌に敗退。小諸城まで逃げ戻ったが、城代の下曾根覚雲斎に二の丸で謀殺されてしまう。
武田氏滅亡後、滝川一益が上野一国と信濃国の小県・佐久の2郡を与えられ、小諸城は一益の統治となるが、本能寺の変がおき、北条氏直との神流川の合戦に大敗。小諸城を依田信蕃に渡して、本領の伊勢に帰った。
信蕃は、武田氏滅亡後は徳川家康に属しており、出身である佐久地方統一に活躍して佐久、諏訪2郡を与えられて小諸城代となるが、岩尾城を攻略中に狙撃されて戦死する。家康はその死を悼み、信蕃の子康国に松平の姓と、小諸6万石を与えた。
天正18年(1590)小田原の役にて康国が上野国石倉城で戦死すると、豊臣秀吉は小田原の役の功により仙石秀久を小諸城に5万石で封じたが、小諸城を近世城郭へと大きく変えたのはこの仙石秀久であった。
秀久は三層の天守閣、二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建てて現在の小諸城が完成した。
小諸城址・懐古園を散策
小諸城は中学校時代の修学旅行で知って以来、何度となく訪れてきた。
小諸城は公園としても素晴らしく、四季折々の植物が楽しめるばかりでなく、小動物園と小遊園地とが併設されている。
北側駐車場には、蒸気機関車(SL)C56-144が置かれている。かなり貴重なものらしい。SLには詳しくないので知らんけど。
小諸城が遊園地と動物園とを併せて残せる大きな要因として、小諸城を取り巻く「大きな堀」が挙げられるだろう。小諸城は「穴城」と称される通り、城下町から見ると城下町より低いところに城があるという極めて特異な立地なのだが、千曲川側からみるとこの高低差は半端なく、大規模な河岸段丘になっている。段丘には何本もの深い谷が刻み込まれ、小諸城はそんな河岸段丘の先端に築かれたが、動物園はこの谷の中にあって、遊園地は谷の向こう側にある。
この地形のおかげで、動物園につきものの臭気も、遊園地の歓声や嬌声も、また景観的にも、全く小諸城趾・懐古園の邪魔にならない形で並存できているのだ。
さて 現存する大手門と三の門はいずれも国の重要文化財に指定されている。
本丸入口へと向かう黒門橋、別名そろばん橋。

この黒門橋は当時、架け外し可能な算磐橋だったらしい。橋を渡った先には黒門があったが、現在は残っていない。
さて 天守台。三層の天守閣は寛永3年の落雷で焼失したまま再建されず、野面積みの石垣だけが残っている。

石垣の上は結構な高さがあるが、柵などはついてない。千鳥足の酔っ払いや子どもたちにとっては大変危険な場所になっている。
園内中央にある本丸跡は現在、懐古神社となっている。
上写真の左上、鳥居の横にある懐古園の碑のタイトルは勝海舟が書いたもので、彼もまた小諸と深くつながっていたことがうかがえる。
社殿の傍には、山本勘助が愛用したといわれる鏡石がある。確かにピカピカしていて、近づけばうっすらと顔やカメラも映り込む。勘助はきっと信玄に会う前にはこの石の前で顔のチェックをしていたのだろう。
寛保の大洪水後に掘られた荒神井戸は、城内唯一の井戸である。美人は引きずり込まれるといわれているらしいが、ジジイはたとえ蓋を開けて顔を突っ込んでも大丈夫だろう。
温泉施設併設の道の駅「みまき」
道の駅「みまき」は、小諸城趾・懐古園から4kmほど西。長野県東部の旧北御牧村(現東御市)にある。高速道路でのアクセスは、上信越道を使って東部湯の丸ICから南に約3キロだ。


道の駅の施設は、物産館、レストラン、温泉施設。 物産館と温泉施設は2011年12月にリニューアルしてコンクリート造りの建物になっている。

実は、昔の施設は上の写真のように古民家のような造りで、とくに看板施設の「御牧乃湯」は私好みの風情があったようだ。
駐車場は、決して広くはない。

トイレは、外観はパッとしないが、中はいい。



休憩環境としては、施設内外ともにゆっくりできるが、特に施設内の休憩スペースがとてもいい。


さて まずは道の駅の付帯施設「御牧の湯」へ。


この温泉の内湯は「檜の湯」と名付けられている。
普通、檜の湯と言えば浴槽が檜造りだと思うが、この内湯の浴槽はタイル造り。 どこが檜の湯なのかと言う人がいたのだろう、湯の中に檜の丸太が3本浮かんでいたらしい。
特に好評ということもなかったのだろう、今はこのサービス?すらもやっていない。

温泉は、内湯とサウナと露天風呂。 露天風呂からも内湯からも浅間山が見える。

温泉が中心となる道の駅で、物産館はかなり小規模である。


少量ながら野菜販売も行われている。



レストラン(Cafe)「みまき苑」は比較的大きい。
オススメは「御牧御膳」。東御市のホエー豚を使用した「ソースかつ丼」、信州ハーブ鶏を用いた「親子丼」なども人気だ。