
白川郷は、1995年に「人類の歴史上重要な時代を例証するある形式の建造物、建築物群技術の集積、または、景観の顕著な例」として世界文化遺産に登録されている。
写真は国指定重要文化財に指定されている旧遠山家住宅だが、現在これらの合掌造りの家屋があるのは、この荻町地区のある庄川上流域の岐阜県にある白川郷と、そこから約30km離れた庄川中流域にある富山県南砺市の五箇山の2カ所である。
庄川は高山市の飛騨高地を水源とし、岐阜県、富山県を北へ流れて富山県射水市の新湊で富山湾に流れ込む、長さ約115 kmの一級河川だ。
その上中流域は険しい谷が続き、広々とした耕作地がない。さらにこの地域は冬に雪が2mも降り積もるため、春先まで外界からの交通が途絶する秘境のような地域だった(宮崎県椎葉村、徳島県祖谷(いや)と並んで日本三大秘境の一つに数えられる)。
今では100軒あまりに減ってしまったが、かつてはここには約1000軒もの合掌造りの家屋があった。
合掌造り集落群は村の中央やや北側に位置する萩町地区に比較的多く残っており、その周囲の伝統文化の体験施設や歴史資料館等では、自然と共に生きる昔ながらの生活の知恵を垣間見ることができる。
白川郷の真髄は2月に行ってこそ
白川郷の地域は日本有数の豪雪地帯で、少し前までは日本の秘境といわれた厳しい気候風土のこの地域で4ヶ月もの長い間、豪雪に耐えながら合掌造りの民家の暮らしが営まれている。
その4ヶ月とは年末から3月まで。数百年の時を刻む合掌造り家屋自体はいつ行っても見ることができても、その家屋の周りの、村の暮らしを育む大自然と長い歴史と現代の生活が見事に調和している“生きている世界遺産”の真髄は、やはり集落が雪に覆われている期間にあるだろう。狙いを雪の白川郷に絞れば冬用タイヤとチェーンが必須となるが、2月に訪れるのがベストだろう。

ちなみに桜の満開は、例年おそらく4月の下旬になるだろう。桜の白川郷を見たければ、4月下旬まで我慢しなくてはならない。


ちなみに、真髄と言わず景色を楽しむ目的なら、私も以前訪れた秋の白川郷もなかなかのもの。山の谷間に点在する、大きな茅ぶき屋根の合掌造りの風景は、建物の色と山々の紅葉が渋く調和して、素晴らしい景色だと思う。

今回私は、ひょっとすると雪景色と桜のコラボする景色が見れるのではないかと4月上旬に訪れたが、下の写真のように、桜はまだ堅い蕾、雪はといえば溶けかけで、どちらも実に中途半端な景色を見ることになってしまった。



「二兎を追う者一兎も得ず」とは、まさにこのようなことを言うのだろう。




冬は雪に閉ざされる山間の地に生まれた生業
もしこの地域が米や農作物の生産に適していたら、あるいは人々の往来が盛んな交通の要衡だったら、このような建物や風景は存在することはなかっただろう。
つまり合掌造りの家屋は生まれていなかったはずだ。
雪が多い地方では屋根の傾斜が急な家屋が多いが、この合掌造りの家屋ほど屋根は広くはないし、家屋も大きくはない。それではなぜこの地域だけ、このような建築様式の家屋が発達したのだろうか。

今でこそ上の写真のように水田もある白川郷・五箇山エリアだが、明治時代になり品種改良が進むまでは米の生産は困難を極めた。
穀物はヒエやアワ、ソバなどが作られていたが、そのほとんどは自給分で、集落の人口も増えなかった。しかしこの地域が農業に不向きで、不便な場所だったからこそ、換金するために発達したものがある。
家内制手工業だ。
具体的には、「養蚕」と火薬の原料となる「焔硝(えんしょう)」作りだった。
たとえば五箇山には合掌造りの集落が2カ所。相倉(あいのくら)集落に20棟、菅沼集落に9棟の合掌造り家屋がある。これらの集落は白川郷に比べてかなり小さいが、やはり養蚕や焔硝作り、和紙作りが行われていた。
それまで日本でも養蚕は行われていたが中国産が好まれ、江戸時代初期までは中国から多くの生糸を輸入していた。しかし鎖国が始まると共に輸入生糸は減り、代わりに幕府や各藩は養蚕を奨励するようになる。これといった換金作物がなかった白川郷・五箇山地域でも養蚕が始まった。
ただし耕作地に限りがある地域なので、養蚕のための建物を別に作るほどの土地はない。そこで住居の中で養蚕を行うようになったのだ。
庄川の上中流域でいつから養蚕が行われていたかは定かではないが、養蚕と共に合掌造りの家屋の規模が大きくなっていったので、建築物の遺構などから大体の推測はできるようだ。
養蚕の発達とともに大型化した合掌造りの家屋
上の写真は、大型化する前の合掌造りの家屋。養蚕が盛んになるにつれ、その生産スペースを拡大するために家屋は次第に大型化していった。
床下では焔硝が作られ、1階部分が住居、2階から3階で養蚕が行われた。養蚕とはつまり繭(まゆ)をとる目的で蚕(かいこ)を飼育するわけだが、蚕がいる2階、3階部分に開かれた特徴的な大窓は、蚕の生育環境を悪化させないために通気を確保するためのものである。
また、耕地の分割を避けるために家長を中心とした大家族制が慣行隣り、なんと結婚できるのは長男だけだったという。こうして1軒の家に、家族だけでなく未婚の親族や使用人も暮らしていた。つまり大きな合掌造りの家は、それ1つが住居であり、工場であり、さらには従業員の寮でもあった。
合掌造りの家屋は、住居と手工業の場を兼ねて独自に大型化していったのである。
こうした農村の特異な文化・生活・暮らしも日本の原風景の一つと言われるが、建物の中にいたいろいろな人々の立場やその営みを想像してこそ「日本の故郷」のような場所であると言う意味が初めてわかってくると思われる。
住居と仕事場が兼用の合掌造りの家屋
現在残っている合掌造りの家屋は、養蚕業が最盛期を迎えた江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたものがほとんどだが、白川郷・五箇山では合掌造りの家が何軒か公開されている。
実際に中に入ってみると、徹底的に機能的に建てられていたことに驚かされる。
白川郷の荻町で公開されている神田家や和田家などの家屋の代表的な間取りを紹介してみよう(写真は白川郷・荻町の神田家の囲炉裏部屋)。
切妻造とは屋根の形状のひとつで、屋根の最頂部の棟(むね)から地上に向かって本を伏せたように2つの傾斜面を持つ山形の屋根が最大の特徴だ。棟と直角な面(三角形の面がある側)を妻(つま)と呼び、棟と平行な面(長方形の面)を平(ひら)と呼ぶ。
玄関は、この切妻造の「妻(つま)」の部分ではなく、細長い「平(ひら)」側にある。
玄関の床には石が敷かれているが、石と石の間には少し隙間がある。これは落とした雪がここで溶け、水が岩の割れ目から沁み込むようにするという雪深い地方ならではの知恵だ。
家屋に入ってすぐ目の前にあるのが、いわゆるリビングルームに当たる囲炉裏部屋。1階部分には他にもふすまで仕切られた畳敷きの部屋が複数あり、そこが住居スペースになっていた。
同様に、内部が開されている白川郷の和田家は築後約300年が経過した今も生活が営まれ続けている、白川郷の代表的茅葺き合掌造り住宅だ。和田家は、古文書や鑑札などの遺物の記録から番所の役人を勤めながら、煙硝(火薬)や生糸の取り扱いを行っていた。
間口14間、奥行き7間の建坪は、白川村に残された合掌造りの家屋としては最も規模が大きい。しかも、庭や生垣、周囲の田畑や水路などの周辺環境の保存状態も良いことで知られ、代表的な合掌家屋として御母衣(みぼろ)の旧遠山家と並び称される風格と美しさを誇っている。
主屋に加え、土蔵や便所を含めて国指定重要文化財に指定されており、現在、1階の一部と2階が公開され、和田家代々で使用された遺物や民具が展示されている。
和田家でも2階以上では養蚕が行われていた。囲炉裏の真上にあたる部分は、囲炉裏の煙を排出し、暖められた空気を家屋全体に回すために吹き抜けになっている。煙には建物の防虫・防腐効果があったという。2階の柱を見ると、長年にわたる煙で燻(いぶ)され黒ずんでいた。
現在このスペースは、古い農具や養蚕用具の展示室になっている。窓は建物の妻の部分にしかないので、天気が悪いと昼間でもこの階は薄暗い。
白川郷の荻町にある合掌造りの家屋の「妻」の部分はみな一様に南北を向いているが、それにはちゃんと理由がある。
1つは、屋根に満遍なく日が当たり雪を解けやすくするため。
もう1つは、風が谷に沿って南北に吹くので屋根が受ける面積を少なくするためだ。
南北にある窓を開ければ風が入り、夏場は蚕が暑さで弱らずにすむ。屋根を支える柱には釘を使わずに木材を組み合わせ、縄で固定している。
3階はもっと狭くなるが、ここも養蚕スペースに使われていた。
火薬の原料となる焔硝とは?
養蚕が日本各地で行われていたのに対し、土地ならではの”特産品”ともいえるのが火薬の原料となる焔硝作りだった。
日本に火薬が伝わったのは12世紀の元寇の時だが、大量に必要となってくるのは、16世紀に鉄砲が伝来してからである。
当時、火縄銃に使われていた黒色火薬は、硝石(しょうせき)と硫黄(いおう)、木炭を混ぜて作られていたが、硫黄や木炭はともかく、硝石は日本ではほとんど産出しなかった。硝石は湿気に弱く、雨の多い日本では自然にはほとんど存在しなかったのだ。
そのため戦国時代には、硝石は海外からの輸入に頼っていた。
江戸時代に入り鎖国が始まると、硝石の輸入は難しくなる。そこで硝石の代わりになるものが必要となったが、それが「焔硝(焔硝土)」。これは日本にもあった。
成分は硝石と同じ硝酸カリウムで、土壌の有機物と動物の糞尿などが窒素化合物に変わり、それが分解してできたものである。これは肥料にも使われるように、植物に養分として吸収されてしまうし、雨が降ると溶けて染み込んでしまう。だから焔硝が自然にまとまって残るのは、家屋の床下のような乾燥した場所や家畜小屋、コウモリが住む洞窟といった、雨に当たらない場所になった。
焔硝は、もともとは自然に任せて家屋の軒下などで作る「古土(こど)法」で作られていたが、それではできるまでに何十年もかかってしまう。そのため、より効率的な焔硝作りの方法して開発されたのが「培養(ばいよう)法」だった。
軍事機密だった焔硝作り
記録によれば、戦国時代末期にはすでに白川郷・五箇山地方で焔硝が作られ、一向一揆や石山合戦ではそこから作られた火薬が使われていたという。鎖国後、焔硝の需要が高まると、この地でも再び焔硝作りが盛んになった。
白川郷の合掌造りの家屋で最大規模を誇り、公開もされている「和田家」はその焔硝作りで栄えた名家で、そこを訪れると焔硝作りについての細かい説明がある。
白川郷・五箇山地方での焔硝の製法は、家屋の床下を掘り、そこに畑の土、ヨモギなどのカルシウムを含む野草、養蚕から出た大量の蚕(かいこ)のフン、人間の尿などをかけて、4、5年かけて発酵させて作る。
この焔硝の製造は江戸幕府には秘密にされた藩の軍事機密だった。だから交通が不便で、冬季には雪で数カ月も外界から閉ざされてしまう白川郷と五箇山は焔硝製造に最適な場所だった。
当時、白川郷は高山藩領(後に天領)、五箇山は加賀藩領に分かれていたが、共に焔硝の製造が行われ、加賀藩では「塩硝」と呼んで他藩への販売を禁止していた。幕末には加賀藩だけで年間39トンも生産していたという。
白川郷・荻町の神田家では、床の一部にガラスが張られて、焔硝作りを行っていた床下がよく見えるようになっている。ブロック型の石で囲まれた焔硝作りのスペースは深さ1mほどある。その上は囲炉裏部屋なので、冬の間でも床下はそれほど冷たくならず発酵が進んだと言うが、その上に住んでいた住民は相当臭かったに違いない。
観光資源として合掌造り家屋が注目
明治に入り日本が開国すると、海外から再び安価な硝石が輸入されるようになり、国内の焔硝作りはあっという間に廃れてしまう。
白川郷・五箇山でも、焔硝作りの歴史は終わり、そして忘れ去られていった。
一方養蚕は明治時代にピークに達し、大型の合掌造りの家屋が引き続き建てられた。しかし戦後になると生糸の需要が減っていく。養蚕が行われなくなれば、合掌造りの家屋はたちまち非経済的なものになる。戦後は次々に現代風の住宅に建て直されていった。
さらに1961年の庄川のダム建設で、全体の3分の1近い約300戸の合掌造りの家屋が湖底に沈んでしまう。
こうして「養蚕と焔硝作り」という時代のニーズによって”創造”された合掌造りの家屋も、次第に姿を消すようになっていった。
時代とともにニーズが変わっていくのは世の常だ。
1995年に白川郷が世界遺産に登録されると、今度は合掌造りの家屋そのものが資源となり、観光客を呼び込むようになった。
今では、年間200万人以上の人(半分はインバウンド)が白川郷を訪れるようになっている。
白川郷へは、道の駅「白川郷」から
白川郷が世界遺産に登録された翌1996年、飯島神社前に道の駅がオープンした。道の駅「白川郷」だ。


東海北陸自動車道の白川郷ICから国道156号線を北に2km、岐阜県北西端の白川村に「道の駅 白川郷」はある。 高速道路を利用しても、下道の国道156号線を通っても、車窓の景色は長閑な農村や手付かずの森林だ。 しかし道の駅周辺の交通量は多い。 白川郷合掌造り集落を見学するために村の人口の1000倍以上となる年間約200万人超の観光客が訪れるからだ。
道の駅から白川郷合掌造り集落に向かう道路は渋滞が頻発する。 酷い時は道の駅の目の前から殆ど車が動かないこともある。 大型連休や週末は避け、平日に訪れるのが良いと思う。
道の駅から白川郷合掌造り集落までは2~3kmの距離だが、私は道の駅に立ち寄って仮眠してから世界遺産へ向かった。 道の駅の年間利用客はコロナ禍の影響がまだ残っていた2022年でも41万1千人。 今年はおそらく50万人は超えているだろう。

旧手塚家の合掌造り住宅を展示
道の駅の目玉になっているの入場無料の合掌ミュージアムだ。
ここに展示されているのは旧手塚家の合掌造り住宅を移転したものだ。 さすがに大自然の中に佇む本物の合掌造り集落と比較すると見劣りするが、「合掌造りってどんな感じなんだろう」というのを知りたい方には、とても有難い展示と思われる。

この合掌ミュージアムならではのメリットもある。 というのも、本物の合掌造り集落は、一部を除いて基本的に外から眺めるだけ。 しかし、この合掌ミュージアムに展示されている住居は中に入ることが可能だ。
屋根裏の真横も見学コースになっていて、屋根に掛けられているカヤの厚さ、断面等も見ることができる。 本物の住居と同様に数年に一度、屋根の付け替え作業も行われるので、 運が良ければ、目の前でその作業を確認することもできる。
合掌造りに集落に関する説明パネル、映像もかなり詳細に行われていてありがたい。 本駅の後に本物の合掌造り集落を訪れる方も、予習という意味で見学する価値は十分。 合掌造り集落の散策が更に楽しくなることは間違いないだろう。
合掌ミュージアムにはスロープが設置されているので、車イスやベビーカーでの見学もしやすそうだ。
合掌ミュージアムのスロープ

合掌造りの建物に下りていくために、階段の他、建物を囲むようにスロープが設置されている。急勾配ではないが、写真のように結構長いスロープ(20メートルほど)なので、車イス走行には注意が必要で、介助者がいた方が安全と思われる。

舗装され室内にあるので、車イスも建物のすぐ側から見学可能だ。ただしミュージアムの最上階(屋根部分)のみ階段となっていて、車イスの利用は困難だ。
道の駅の基本機能はどうか
「道の駅 白川郷」は地元の農産物直売所や、飛騨、白川村ならではのお土産店、メニュー豊富なお食事処など、白川村の魅力がたくさん詰まっている場所となっている。

駐車場はそんなに広くない。平日なら全然問題ないが、週末や大型連休時は混雑が予想される。休憩スペースも同様。平日での利用なら、とても質の良い休憩ができる。





情報コーナー、売店



道路情報、周辺の観光案内の情報を知ることができる情報コーナー。

売店では、白川郷のお土産を購入できる。
白川郷の特産品はとても多く、店内の商品の半数以上は白川郷関連の特産品で占められる。
たとえば白川郷の濁酒(どぶろく)。この地方では「どぶ」と呼ばれている。 「どぶコーナー」で販売されている濁酒は「とろーりにごり」「飛騨のどぶ」 「飛騨のどぶカップ」「合掌の郷カップ」等々、お酒好きの方は要チェックだ。

甘党の方には、「白川郷ぷりんの家」が提供する「まろやかプリン」がオススメ。

「白川郷で作られている」という付加価値があるのも事実だが、 純粋に味だけで比較しても都市部で販売されている高級プリンと比較しても決して遜色がない。
他にも「石豆富」や「白川郷合掌揚げ」など、地元の宮部豆腐店が提供するこの地方ならではの商品も注目に値する。「白川郷合掌せんべい」、 白川郷のブランド豚肉「結旨豚」を使った商品も人気で「結旨豚カレー」「結旨豚ジャーキー」等が販売されている。
白川郷のオリジナル料理を提供するレストラン
道の駅には「食事処 水屋(みんじゃ)」がある。 このレストランでは白川郷ならではの料理を提供している。

人気メニューは「昇竜らーめん」。 白川郷の米粉がブレンドされた麺を使用した豚骨味噌味のラーメンだ。 白川郷のブランド豚肉「結旨豚」を使ったメニューも人気で、「結旨豚のちゃーしゅーめん」、「結豚旨カレー」、「結旨豚フランク」などがある。
汁なしラーメンの「白山周遊満喫らーめんは、麺に白川郷産コシヒカリの米粉を配合。飛騨の山菜がトッピングされている。 ジビエを使った「熊汁定食」「熊うどん」「飛騨牛丼」「飛騨牛肉巻きおにぎり」「飛騨牛コロッケ」等、飛騨牛を使った料理もこのレストランの特徴となっている。
