みきで〜す、って、兄弟漫才師じゃありません。
「金物のまち三木」にある道の駅。かなりでかい道の駅です。
「金物のまちって、兵庫県の小学校の授業で教える時にはそうだけど、今や「ゴルフのまち」でもあります。
三木市には25カ所のゴルフ場があり、その数は西日本一(全国2位)!
自然と一体となった魅力的なコースが満載で、毎年トーナメントツアーが数多く開催されているほか、全国から毎年100万人を超えるゴルファーが訪れます。
ゴルフ産業は、いまや市の最重要な産業。
市では、ゴルフによる街のさらなる活性化に向けて力を注いでいて、国内の女子プロが頂点を争う「三木市レディースゴルフトーナメント」の開催や各ゴルフ場を巡るスタンプラリー、小学生~高校生を対象としたゴルフ教室の開催などを行っています。
もちろん、「金物」は三木の大切な地場産業。
ゴージャスで特徴ある建物の外観は、三木金物の象徴である金物鷲が飛び立つ様をイメージしているそうで、そこからの眺望もなかなかのものです。
金物好きにはたまらない道の駅(笑)
三木と言えば、金物のまちとして有名だ。
約400年の歴史をもつ三木金物は、鍛冶職人による手作りの伝統技術・先端技術・良質の素材を駆使していて、品質は素晴らしい。道の駅みきには、金物産業の振興拠点として設立された金物展示即売館があり、店内では、三木市内の製造メーカー70数社、約20,000アイテムに及ぶ金物製品が販売されていて、三木金物を購入するならここで事足りる。
職人さんご愛用品も多数あり、ホームセンターではお目にかかれないような逸品も。2023年からは三木金物のシンボルとなっている「金物鷲」も展示されている。
この鷲、三木金物約3,000点で組上げられているらしい。趣味の良し悪し、好みは別にして、すごい!
2階には三木金物を一堂に展示販売する「金物展示館」を併設。
市内で製造された大工道具や工具類、家庭用刃物を中心に約2万点もの製品が並んでいる。
売店やレストランも超充実
1階には、三木をはじめとする神戸・姫路といった周辺地域のお土産や加工品、青果類を扱う販売コーナーや専門店が入居していて、酒米山田錦の味噌を使用した「山田錦みそソフトクリーム」や大粒の栗を丸ごと1個パイ生地と栗餡で包みこんだ「みき山マロン」が人気らしい。
レストランでは自家製麺を使用したボリュームある定食類を中心に、旬の素材を使用した季節メニューも充実。「金物のまち」ならではの特注の鉄鍋に蛸と茄子をトッピングしたご当地グルメ「鍛冶屋グルメ」は、観光で来られるお客様には大人気!鍛冶屋鍋カレー・鍛冶屋鍋天丼・鍛冶屋鍋焼きうどんをラインナップ。
旅の予算が限られている私には、どれもちょっと高い気がしないでもないが、お金に困っておられない方は大いに楽しめるだろう。
また、隣接する北播磨地域最大の多目的展示場「メッセみき」では、毎週週末、フリーマーケットやカーミーティング、各種物産展や展示会といった様々なイベントが開催されている。
ちなみに、メッセみき兵庫県北播磨地域最大級の多目的展示ホールで、 リーズナブルな価格で大小さまざまな展示会・見本市・イベント等に幅広く利用できるらしい。
トイレも文句なしだが休憩スペースは?
駐車場のデカさもそうだが、便器の数からも、「道の駅」の規模はよくわかる。
「道の駅・みき」は、森林空間が周辺に広がる高台に位置し、規模的には相当大きな部類の道の駅だ。
こんなオシャレな休憩スペースはちゃんとあるのだが、規模の割に休憩スペースがさほど充実していないような気もする。ちょっと辛口かな?
仮眠は自由自在!
夜になるとめっきり車が減って、こんな感じになる。
トイレは写真中央、自動販売機の左手だが、この敷地内で仮眠するよりも、トイレから遠くなるが第二駐車場での仮眠をお勧めする。
第二駐車場というと、補助的な駐車場の感があるが、これがまためちゃめちゃ広い。
第一駐車場もそうだが、ここは駐車場の照明がとても明るいので、車に遮光カーテンとかを取り付けていないとなかなか寝付けないもしれない。
第二駐車場での夜の仮眠は、車の台数が少なくてスカスカすぎると怖いかもしれないが、奥には大型トラックの人たちが必ず泊まっていて、彼らとの距離感をうまくとって安心に思える場所を自由に選べば良いと思う。
ちなみに、第二駐車場からトイレに行くには、この階段を使って降りる。
さてもし仮眠が朝なら、どこへ行く?
道の駅「みき」のま正面(国道175号線を挟んで西側)は、異国風情ただよう「三木ホースランドパーク」である。
この三木ホースランドパークは、全国でも有数の、日本中央競馬会の保有する馬術競技場。入園料や駐車場は無料で開放しており、引き馬、馬車乗り、ニンジン餌やりなどが、気軽に体験できる(これらは有料)。
広大な敷地には野外キャンプ場や研修センターなどもあり、幅広い世代に人気のスポットになっている。
このほか「道の駅」周辺には、豊かな森林空間の中に森の文化館や親水広場、アスレチックなど憩いの空間を提供する三木山森林公園、多目的広場(トラック競技施設)、野球場、屋内プールなどを備えた三木市総合公園があり、アウトドア派の皆さんには楽しめる場所は多い。
私の場合は、全国第二のゴルフのまち三木ということで、楽天GORAでもバリューゴルフでも、前日に「一人予約」を入れてプレーできるゴルフ場はよりどりみどり。なので、ここで仮眠した次の日はゴルフと決まっている(笑)。
鶴林寺(加古川市)に足を伸ばそう
日本大好き、歴史大好きな人にとっても、道の駅「みき」は歴史探訪の最適な出発点となるだろう。
兵庫県の国宝建造物としては、姫路城のほか6つの寺院建築と1件の仏像が美術工芸品として国宝となっているが、その半数が道の駅「みき」から60分走行圏内に集中している。
とりわけ加古川市にある鶴林寺には、ぜひ行っていただきたい。高僧・惠便法師をしたって播磨を訪れた聖徳太子の命で創建された刀田山四天王寺聖霊院が始まりと伝わっていて、天永3年(1112)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたことから寺号が鶴林寺と改められている。
写真は、本堂。この建立は応永4年(1397)のこと。
平安時代の和様から鎌倉時代初期の大仏様、禅宗様が導入された折衷様式の代表例とされている。
一方、写真下の国宝「鶴林寺太子堂」は天永3年に「法華堂」として建てられたが、太子信仰の流行に伴って「太子堂」とされ、礼堂が付け加えられた。
太子堂は、桁行3間、梁間3間、一重、檜皮葺、宝形造の建造物として、平安時代後期の藤原建築の美を今に伝えている。
江戸時代のものといわれる「鶴林寺縁起」に鶴林寺の始まりに関する記録が残っている。そこには「蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ、刀田山四天王聖霊院と名付けた」とあり、その崇峻天皇2年(589年)が鶴林寺の始まりとされている。
太子堂の中に鎮座ましますこのお方こそは、聖徳太子であろう。
さて、ここから少し私的な話もさせていただくが、写真のこの方は、吉田亨盛(こうせい)と仰られ鶴林寺の先代住職をつとめられた。そしてなんと、私の高校時代の恩師(日本史を教えていただいた)でもある(以降吉田先生)。
吉田先生は、鶴林寺および真光寺の住職にあって、私の母校である明石高校の社会科教諭として教壇に立ってもおられた。
18年前に77歳で没されたが、ちょうど50年前の1975年、先生が45歳のとき、そのすばらしい声と、教科書には触れられていない日本史の底流を掘り下げて教えていただいた授業が昨日のことのように思い出される。たとえば教科書では鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府への変遷の記述があるのだが、その背後でずっと続いていた律令政治、その時々の朝廷がやはりこの国の中央集権政治にあったその根幹部分を掘り下げてくださった。
板書はあまりなく、圧倒的な話力がすごかった。あまり勉強をしなかった私が、吉田先生の日本史の授業だけにはいつも惹きつけられていた。
その後吉田先生は真光寺と鶴林寺の住職を兼務されますます忙しくされておられたちょうどその時、平成7年(1995)に阪神淡路大震災が起こり、鶴林寺も被災した。吉田先生は、本堂建立後ちょうど600年になる平成9年までになんとか鶴林寺を復興せんと地域の方々、地元企業を奔走して寄付を集め、見事に復興を果たされた。
西国薬師霊場、関西花の寺霊場、西国霊場など、さまざまな霊場に名を連ねる鶴林寺の復興は重大案件であった。中でも西国薬師霊場49霊場会の一番が奈良の薬師寺、49番が鶴林寺の本山である比叡山延暦寺である。その西国薬師霊場49霊場会大法要が、復興果たした鶴林寺で執り行われるすることになった。そこには重病で病院に入院されておられた高田好胤薬師寺元管主、法相宗管長がなんと病を推して病院から抜け出して駆けつけられた。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯を捧げられた歴史にその名を残す偉大な方である。その高田好胤薬師寺元管主、法相宗管長が、気力を振り絞られ鶴林寺で最後の説法をなされた。説法後容体が悪化し、翌年旅立ってしまわれたが、薬師寺の本坊での説法ではなく鶴林寺での説法が最後の説法であったこと、そしてその説法の内容は、吉田先生の心に深く刻まれたことだろう。
鶴林寺境内の一角に、特攻隊の碑がある。地元中村屋旅館の宮田館主が旅館の継続を断念した際に吉田先生にこう陳情されたという。「うちの旅館は特攻兵の皆さんを迎えては送り出してきたが、旅館を続けることが叶わなくなった。どうか鶴林寺で彼らを弔う碑を受け入れてくれないか」と。吉田先生は快く受け入れて慰霊碑の開闢法要を執り行ったが、その際には生き残りの若鷲隊訓練生もたくさん来られ、その際植えられた桜が碑の左右に育っている。
また、吉田先生が住職にあった時代には、観音様が盗難に遭うという一大事もあった。悲嘆に暮れていた吉田先生に曾根崎警察から電話があり、盗まれた本体と台座の痕跡とがぴたり一致したため、観音様は鶴林寺に帰還したという。本当に良かったね、吉田先生。
隣町小野市の浄土寺浄土堂(阿弥陀堂)/木造阿弥陀如来及両脇侍立像へ
三木市のお隣小野市にある浄土寺は、源平合戦で焼失した東大寺再建のため、大勧進職に就いた重源上人が建立した東大寺別所の一つ、播磨別所として建久8年(1197)に完成した。天井を張らない化粧屋根裏と呼ばれる造りで、東大寺と同様の大仏様(天竺様)が採用されている。
現存する大仏様の建造物は、東大寺の南大門とこの浄土寺のみである。
ここに安置されている木造阿弥陀三尊立像は、鎌倉時代の名仏師、快慶の大傑作。浄土寺の本尊で、浄土堂創建当時につくられて安置されている。中に入ってまず度肝を抜かれるのはその大きさ。阿弥陀如来の高さは530cm、左右の観音、勢至の両菩薩はそれぞれ370cm。その迫力に圧倒されながら見上げ続けていると、その彫刻のあまりの見事さに心が揺さぶられ続ける。
私も美大にまで行って芸術を志した端くれではあるが、もうこの快慶の才能は尋常ではない。絵は二次元、彫刻は三次元の表現物。もちろん絵にも傑作は多いが、三次元の彫刻の迫力は、文字通り次元が違う。
夕刻には、背後から西陽が照らし、逆光の中まさに御来迎を目の当たりにすることができる。
太山寺本堂/太子堂(神戸市西区)へは30分
三木市と接する神戸市西区にある太山寺は、大化の改新の立役者、藤原鎌足の子、定恵が開山しあと、鎌足の孫、藤原宇合が霊亀2年(716)に建立したと伝わる。その後永仁年間(1293〜1299)に再建された本堂は、日本風の和様に中国風の唐様を取り入れた造りとなっている。
明石に住み始めたのは人丸小学校の3年生2学期。4年生になってすぐの写生大会で初めてここを訪れてから60年近くの歳月が流れたが、今も天気が良いとつい来てしまう、ここは本当に大好きな場所なのだ。
いつでも来れると思うとあまり写真を残していなかったので、今後桜の季節、紅葉の季節など、訪れるたびに撮った写真を追加していきたい。