大切なコンペ仲間と<1st R=102(41)@道の駅「とうじょう」近くのライオンズCC>

能登の震災で年初のゴルフを自粛していましたが、本日1月14日に初ラウンドをしました。私にとっての原点に共にいてくれた人たち、29年前の阪神淡路大震災の被災者としてともに困難を乗り越えてきた仲間との大切なコンペだったので、この集まりだけはキャンセルしませんでした。

大切なコンペとは、「どんたーずゴルフコンペ」。それは、淡路島の北淡町立富島小学校に1年生の途中から転入した私が人生で初めて得た同級の友人5人を含む、淡路島ゆかりのゴルフコンペです(この写真は小学校3年生の夏、淡路島から明石へと引っ越す際の、わずか一年半とはいえ仲良くしてくれた彼らとの別れの写真です)。

コンペの場所は、兵庫県のライオンズCC。私のエージシュートの旅のファーストラウンドは102という不本意極まりない絶望的なスコア(41パットは酷すぎ)でしたが、かけがえのない仲間たちと楽しく回れたことだけでこの上ない喜びです。

震災から29年

淡路島の富島港で、現在どんたーずメンバーにいる同級生5人と別れて以来、58年もの歳月が流れた。

その間にあった最も大きな出来事は、58年の空白のちょうど折り返しとなる29年前、1995年1月17日に起こったあの阪神淡路大震災だろう。

もう29年前になるが、平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大審査(兵庫県南部地震)が発生した。震源である淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市などは震度7の烈しい揺れに見舞われ、死者6,434人、重軽傷者者43,792人。全半壊家屋274,181棟。焼失家屋約7,500棟、避難者約35万人。断水130万世帯。停電260万戸。ガス停止86万世帯。電話不通30万回線。同時多発火災約290件の大惨事に発展してしまう。

まさに震源の直近で、もっとも被害の大きかった地域の一つである北淡町の彼ら5人の家も、ことごとく崩れ落ちた。

お年玉を握りしめておもちゃを買いに走った、私の家から50メートルほどの商業施設「トシマダイマル」も、その途中にある小山くんのガラス店も、宗和くんの八百屋も、この写真のようにペシャンコになってしまった。

私の復興

私が住んでいたマンションは神戸の東灘区にあったが、最も被害が大きかった地域の一つで周りのマンションはことごとく倒れたにもかかわらず、うちのマンションだけはなぜかゼネコンの手抜き工事で元々傾いていたその傾きがさらに酷くなった、その程度で命に別状なく、しかしながら淡路島の私の実家は全壊してしまう。

最も重大だったのは、狭小な土地に無理やり階を積み重ねたいわゆるペンシルビルの最上階に開業して4年目の、私の小さな会社だった。ビルが傾き、外壁は大きく割れて、それまでの預金を全て注ぎ込み、かなりの借金を足して導入した事業のための設備(主にコンピュータやその周辺機器類)はほぼ全てやられてしまった。

仲間たちと検討し、会社を京都に移転し、設備を再導入。そこからの10年間は無我夢中だった。我ながらよく頑張ったと思う。

金の苦労

金の苦労は一人前にしたと思う。淡路島でそれぞれの店(家)が全壊した小山くんも宗和くんも苦労して店を建て直し、平井くんは歯科医師になって現地に医院を開業。安冨くんは金融業界、内田くんはメーカー勤務で、5人皆それぞれがとてつもなく長い復興の道のりを経て昨年、小学校3年生で淡路島を離れた私と奇跡的に再会を果たすことができた。そのきっかけとなったのがゴルフであり、どんたーずコンペなのである。

私の人生で縁をいただいた方々は多いが、中にはお金をほとんど使うことなく、貯め込んでいる人もいらっしゃる。まあその人にとってお金より大切なものがないなら、それもまたよしだ。しかしお金は生涯で使いきれずに余ったとしても、墓場まで持っていくことはできないし、お金の苦労はなくても不幸せな人はたくさんいる。

お金より大切なものはある。

ひとつは時間、まさにタイムイズマネーだが、時間には間違いなくお金以上の価値がある。

もう一つは、きっと皆さんそれぞれ何か一つ、持っておられる「何か」である。私にとってそれは、自分らしく生きてこそ得られる「幸せ」だ。

お金というものは、その人の生き方、その人が望む人生にとって必要なものにすぎず、その人の人生に必要にして十分なだけ、つまりちょうどあればそれで良いのだと私は思う。言い換えれば、お金なんて、自分自身の幸せな人生に必要なことに使って初めて価値が生まれるものに過ぎない(たいして持っていない負け犬の遠吠えに聞こえるかもw)。

では、私の幸せとはなんだろう

これまでを振り返れば、40歳以降は、家族のため、子どものために働き、稼ぐことで正直精一杯だった。家族の笑顔だけが、労働意欲の源泉であり、エネルギーに変わる全てだった。

では、その前、家族のためにという意識がなかった10 年間の独身時代、私は何のために働いていたのだろうとふと考えた。

しかし、答えが見つからないのである。

サラリーマン時代の10年間は仕事そのものが面白かった。仲間と働く緊張感ややりがいが、自分を突き動かしていたのだろうという気はする。しかし、稼いだ金はほとんどが毎夜の外食と酒、家賃や車に消え、人並み以上の給与をいただいていたにも関わらず、貯金というものができることはなかった。

あれほど面白かった仕事も、時代が変われば必要のないものになって、いつしか泡のように消えていた。

その後独立し、結婚し、二人の子どもに恵まれて、ようやく「家族のために」という労働の目的を見出すのだが、それまでの10年もの間、一体何を目指してあれほど働いたのだろうと今更ながらに思うのだ。若気の至りだろうか(笑)。

これから老人として、何に幸せを感じるのだろう

いくら悔やんでも過去は変えられないので、未来に目を向けてみる。

さて、私は現在66歳。大きな病気は一度したけれども、今は「一病息災」というやつのおかげか、健康である。子育て時代の膨大な仕事の、半分以下ではあっても、ありがたいことに仕事を続けることもできている。その報酬で十分なほど、現在は住宅や教育資金の負担がなくなったのだ。

そこで、今までにやりたくてできなかったことを挙げてみた。

できなかったことはたくさんあるが、好きなドライブでで全国津々浦々を回りながら気が向けば釣りをすること、オフピステを気ままに滑るスキー、そしてゴルフという3つがやりたいこととして残った。

そして、ちょっと次元の違ったところというか、心の少し深いところで。

「自分でしかできない価値というものを世の中に提供できれば最高の幸せなのではないか」という感覚を、強く感じたのである。

ゴールベースアプローチの実行

この「自分でしかできない価値というものを世の中に提供できれば最高の幸せ」という感覚は、おそらく自分の人生で最後まで目指し続けるべきものではないか、つまりはそれが「人生のゴール」ではないかという感覚は、私の中で日々確信に近いものになっている。

ゴールすなわち目的と目標を明確にして、そのためになすべきことを選択し、人生を送ること。

それが「ゴールベースアプローチ」である。

私は、まず「エージシュート」という今は到底届かない目標を掲げることにした。

目標には達成の日付を振るものである。その目標達成は、73歳になる私の誕生日2月9日の前日、つまり72歳としての最終日2031年2月8日。この日までにパープレーを達成するということになる。

そして、それを日本全国の名門コース、人気コースを片っ端から回りながら車中泊などを楽しみ、冬にはスキー、気が向けば釣りも楽しみながら過ごしていく。

ゴルフができない体になってなお寿命が残されていたら。原点である淡路島に帰りたい。そして、釣りも楽しんで。

仕事も幸い、旅先でもリモートでできる仕事である。

もちろんこれらのことが私にしかできないこととは全く思わないが、幸い健康があり友がいて、時間がある。このセカンドステージの「旅」の全てを記録し、このブログで紡いでいくうちに、今はまだ見えない価値が見出せるのではないかと思った次第である。

「エージシュートへの旅」が続く限り、この初心忘るべからず。

みなさんのお役に立つことがどれほどあるかわからない、

それでもこの旅で見つけるいろんなことのすべてを包み隠すことなくここに記していこうと思う。