
生坂(いくさか)ダムは、犀川水系5ダムの最上流域、長野県東筑摩郡生坂村にある重力式コンクリートダムである。
45年前の1980年(昭和55年)3月29日、このダムの湖底から、ビニール製のロープで体を縛られた男性の遺体が発見された。
遺体は長野県麻績(おみ)村に住む会社員、小山福来(よしき=当時21歳)のものと判明。彼は数日前に友人の女性と出かけてから女性を残して行方不明になっており、母親から捜索願が出されていた。
行方不明になる前、小山青年は面識のない男に声をかけられ、友人の女性を残して男の車に乗っており、さらに遺体は縛られた状態で発見されたことから殺人事件の可能性が限りなく高いと見られたが、なんと長野県警は早々に彼の死因を「自殺」と断定した。
判断の理由は、①ガイシャが特に争うこともなく自ら男の車に乗り込んだこと、②紐がガイシャ自身で縛ることができなくはない状態だったこと、③遺体には頸部の索条痕以外に目立った外傷が無く、解剖および検死により、死因が生坂ダムの水による溺死であるとされたこと、④ガイシャが複数の場所で「死にたい」という旨の発言していたこと。この4点だった。
その後、オウム真理教による「松本サリン事件」で世紀の大失態を演じた長野県警、この事件とも、その「被害者」なった河野義行氏とも、「因縁」そして「怨念」と言う見えない線で太く結ばれる生坂ダム殺人事件の「真相の裏側」を知りたくなり、私は殺害現場の生坂ダムに向かった。

20年後に真実が明らかに
20年の時が流れ、つまり殺人罪の公訴時効(当時は15年)が5年前に成立し、民事訴訟の時効(20年)も成立した直後の2000年(平成12年)4月14日、とんでもないことが起こる。
覚醒剤取締法違反の罪で服役していた太田健一(犯行当時31歳)が、「人を殺したので話をする。」という内容の手紙を豊科警察署の署長宛に送ったのだ。
太田は、こう供述した。
「1980年3月1日、知人と2人で車に乗っていたところ、友人女性と車で松本市内の運動公園駐車場に来ていた小山さんと知人との間でトラブルとなった。その後に小山さんを自分たちの車に乗せ、紐で縛り、生きたままダムに投げ込んだ。」と。
この供述により、松本署は捜査を再開するが、時効成立により捜査資料の多くが保存期間切れで廃棄されていて、供述内容のみでの即断ができなかった。その後県警は約3年をかけて再捜査を行った結果、犯行に使ったビニール紐を太田が購入したことが断定され、購入した店も特定されて、太田の自供の裏付けは完全にとれた。
太田の自白から3年後の2003年(平成15年)9月、長野県警は捜査ミスを認めて小山さんの遺族に謝罪。10月6日付で太田を長野地方検察庁へ書類送検したが、同月11日には刑務所を出所した。
太田も警察もわかっていたのだ。
この時点で既に殺人罪の公訴時効(当時は15年)成立によって自分が不起訴処分になることも、民事訴訟の時効(20年)も既に成立していることも。
長野県警は意図的に手を抜いた
この事件に関する長野県警の失態は、大きく2つある。
一つは、目撃者である小山さんの友人女性の詳細な証言がありながら、小山青年を連れ去った大型の黒色乗用車を特定できなかったこと。これは、長野県警無能の誹りを免れまい。
生坂ダム殺人事件が起きた当時、長野県警は約120人の捜査員を投入したと発表しているが、結局、太田健一ら犯人が乗っていた黒い大型車の行方すら掴めなかったのだ。
もう一つは、同時期に発生していた「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の捜査により多くの捜査員を投入して犯人逮捕に躍起になっていたあまり、この事件の捜査についてはすっかり疎かになったことである。
これについては、疎かになったというより、手を抜いたと言われても1ミリも抗弁できないだろう。なぜなら、小山さんを自殺と断定した根拠があまりにもいい加減で、断定できるはずもないものだったのだから。
ちなみに「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」とは、1980年の2月から3月にかけて発生した身代金目的の富山県、長野県の2箇所でそれぞれ若い女性が身代金目的で誘拐され、遺体で発見された誘拐・殺人事件のことだ。

犯行に使われた車から「赤いフェアレディ事件」とも呼ばれたこの事件は、身代金目的の誘拐〜殺人が多発していたため社会から大きな注目を集めていた。
結局この事件でも警察は失態を演じてしまう。逮捕した二人のうち一人は死刑が確定したものの、一人はなんと冤罪(無罪確定)だったのである。
人違いが殺人事件に
生坂ダム殺人事件の当日、1980年3月1日に起こった一部始終はこうだ。
小山青年は女性の友人と松本市内にある松本運動公園(現在の信州スカイパーク)に遊びに来ていた。ちなみに、松本運動公園は1978年の国体開催時に美しく整備されており、事件当時は周辺の若者の間で人気の高いデートスポットだった。

この松本運動公園の駐車場に車を停めて、小山青年は友人女性と話をしていた。
そこに二人の男が乗った1台の黒い大型車が近づいてきた。車から降りて小山さんの車まで来て声をかけてきたのは太田健一だった。
太田はこう言った。
「話があるから、こっちの車に乗ってくれないか」
太田健一と小山青年は面識がなかったが、特に争うような様子もなく、小山青年は一人車を降りて、太田の車に乗る。
太田健一は、知人から「最近、知らない奴から車で尾行されている気がする」と相談を受けており、この日はその知人とたまたま松本運動公園に来ていた。そして知人が、駐車場に停められた小山青年の車を見て「自分をつけているのはあの車だ!」と言ったため、太田健一は小山青年に接触したのだった。
ところが、これが全くの「人違い」だった。
なぜ小山さんを殺したか
太田健一と知人は、車を公園から出してしばらく走ったあと車を停めて、小山青年が本当に「つけてきていた人物なのか」確かめた。そしてすぐ、「どうやら人違いだ」ということに気づく。
慌てた太田らは松本運動公園に小山青年を送り返そうと引き返したが、駐車場から小山青年の車は消えていた。
「一緒にいた小山青年の友人女性が、自分たちが彼を拉致したと警察に通報しに行ったに違いない」
そう思った太田は慌てた。
太田らは、女性の行方を探すべく、彼女の家に電話をかけ帰宅しているか確認するよう小山青年に迫る。当時はもちろん携帯電話などない。小山青年は言われたとおりに公衆電話から電話をかけたが、彼女は帰宅していなかった。
「どうしても女性の行き先を突き止めないといけない。彼女の連絡先を教えろ!」
太田は、さらに強く迫ったが、小山青年は「知らない人間に女性の連絡先は教えられない」と応じなかった。
この時点で、太田らは単に勘違いで小山さんを連れ出してしまい、間違いに気づいて謝って送り返しただけである。万が一警察に事情を聞かれたとしても、事実を話せば大事になるはずもなかった。
それなのに、太田はしつこく小山青年に迫った。なぜか。
太田には、実は、太田健一にはどうしても警察に行きたくない事情があったのだ。
太田は違法薬物使用の常習者で、小山青年の拉致ではお咎めがなくとも、薬物の所持・使用で逮捕されるおそれがあった。
太田健一は生坂ダムに小山青年を連れて行くと、途中で購入したビニール製の洗濯ロープで彼を縛り上げ、女性の連絡先を教えろと脅した。
しかし、体を縛られてもなお、小山青年は口を割らなかった。
太田はついに、小山さんを生きたまま生坂ダムに放り込んだ。

これが3月1日の起こったことのすベて。殺人事件の真相である。
捜索願と長野県警初動までの「2日間の空白」
しかし、長野県警の捜査の真相は闇の中にある。
事件が発生した3月1日の23時頃、小山さんの母親のはつ恵さんは麻績村の駐在所に向かい、「友人とともに松本運動公園にいた息子が、見知らぬ男の車に乗せられてどこかへ連れ去られた」と相談し、松本署に捜索願を出した(はつ恵さんの証言)。
ところが、長野県警の記録では、「捜索願を受理したのは3月3日」となっているのだ。
事件性が疑われるようなシチュエーションでありながら、なぜ相談から捜索願の受理まで2日も間が空いたのか。これについて長野県警は「相談があった3月1日から小山さんの行方は捜査していた」としたが、本当に1日から捜査をしていたのかは疑わしい。
そして、殺害から4週間が経った3月29日、放水作業で水位が下がった生坂ダムの湖底から、「なぜか自らロープで縛ってダム湖に身を投げた」小山青年の遺体が発見されたのだった。
「松本サリン事件」と繋がった「生坂ダム殺人事件」
20年後に、太田の自白によってこの事件が殺人事件であったとわかった際、公安委員の一人に河野義行がいた。そう、あの松本サリン事件の第一通報者で被害者でありながら長野県警に犯人と決めつけられた、あの河野義行氏である。

彼を長野県公安委員会委員に任命したのは、田中康夫知事だった。
田中知事は、メディアによる報道によって犯人視された河野氏に、公安委員の就任を要請し、任命式にも出席している。これは、「表現センター」宣言や「脱・記者クラブ」宣言など、既存の報道体制に異議を唱えて時の人となった田中にとって、非常にアピール効果の高いパフォーマンスだった。河野氏の公安委員任命は、事件の被害者が、事件の当事者としてではなく「システムの改革者」として関わると言う画期的な試みではあったが、もちろん話題性抜群で、田中によってはこれ以上ない「美味しいアピール材料」だったのだ。
河野氏は、松本サリン事件の第一通報者であり、事件後、長野県警による家宅捜索や度重なる事情聴取、そして報道被害によって人生を大きく狂わされたが、弁護士の永田恒治氏の支援を受けながら「事件の真相解明に大きな役割を果たした」という理由をもって長野県公安委員に任命され、事件の被害者としての立場から「警察のあり方を改革」していくことを目指していた。
そんなタイミングで生坂ダム殺人事件の県警捜査について問われた河野公安委員は、警察にとっては「とんでもないコメントと行動」を起こす。
パンドラの箱を開けた河野公安委員
「殺されたのに自殺したというふうに警察が判断された場合、それはずっと自殺ということで通っていくわけです」と、長野県警の傷口に塩を塗るような発言を繰り返しながら、河野公安委員は「警察組織にとっては不都合な行動をとる。
河野委員はまず、殺された男性のお母さんを何とか救う法律がないだろうかと、徹底的に探した。現在、犯罪被害者等給付金制度があるが、この事件はそれより前の事件であった。
何もないことがわかると、河野委員はパンドラの箱を開けてしまう。
それは「警友会」。
アンタッチャブルな警察のOB会組織だった。
「警友会」に出向いた河野公安委員は、マスコミを味方につけつつ、「警友会でカンパ運動をやって、何とか警察の気持ちを届けよう」と言う提案をする。
猛烈な警察バッシングの中、河野委員の提案を「警友会」は拒否できなかった。
かくして、河野公安委員は、警察組織全体を敵に回すことになる。
まさか消されることはあるまいが
その後は火を見るよりも明らか。河野委員は任期1期で更新なし、事実上の「更迭」だ。
そこに、目には見えないが抗うなどできようもない警察権力の「圧力」があったことは言うまでもないだろう。
河野義行氏は、皮肉なことに、警察の大失態によってあまりにも有名人になった。
報道で彼を追い詰めたマスコミは、罪の意識から、すっかり彼の味方である。
そのために、彼はその身を守られている。
「消される」まではされないで今日まで生きておられるが、今後の活動如何では、身の危険がないとは言えないだろう。
「松本サリン事件」で自分を犯人にしたかった警察組織の闇。
そして「生坂ダム殺人事件」の2日間の空白や、どうしても自殺扱いにしたかった背景にある警察組織の闇。
すべてを知る彼は、現在「著述家」として新たな人生を歩んでいる。
これまでの著書に「『疑惑』は晴れようとも」(文芸春秋社)、「妻よ!」(潮出版)などがあるが、この程度の内容にとどめていくのが懸命だろう。
「知ったすべて」を著述することは、危険なことだから。
闇は闇として、墓場まで持っていくのが身のためである。
ダム湖の底に沈んだ青年の声なき声が聞こえた
長野自動車道の安曇野ICから国道19号線を北に18km、 目の前に全長約1kmの生坂トンネルが見えてきたら、このトンネルには入らずトンネル横の側道(県道275号線)に進んで、そこからおよそ600m。 生坂村中心部の小さな集落と「生坂ダム」があり、そこに道の駅「いくさかの郷」もある。


「生坂ダム殺人事件」で知られるようになった生坂村は、生坂トンネル完成前は国道19号線沿いの交通の拠点になる村だったが、トンネル完成後は交通の流れが変わってしまい、生坂村を訪れる人はわずか。

道の駅は、あの忌まわしい事件がそろそろ風化したタイミングで、トンネル完成前の村の賑わいを取り戻すことを目的に2018年9月にオープンした。

道の駅の屋外、「おやき販売コーナー」で「灰焼きおやき」を買う。
灰の中に入れて焼く、生坂村名物の「おやき」だ。
焼かれて仕舞えば「死人に口無し」か。
23年間、「彼女との楽しいデートをした日にわざわざ自らの体をロープで縛って生坂ダムに投身自殺した」と警察にでっち上げられた弱冠21歳の、冷たい固定に沈んでいる前途ある青年の声なき声が聞こえるような気がした。
生きていれば67歳。奇しくも私と同い年だ。
21歳で人生を絶たれた彼が28日間沈んでいた生坂ダムに向かって手を合わせてから、私はベンチに腰掛け、そして「灰と焼かれたおやき」を、先日抜け落ちた奥歯の歯茎で噛み締めた。
28日間遺体が湖底に沈んでいた理由
「おやき」をいただきながら、ふと、新たな疑問が湧いてきた。
「なぜ彼の遺体は28日間も湖底に沈んだままだったのだろう?」
「沈んだままの死体を、警察はどうして発見することができたのか?」
「湖面には水鳥が見えたが、水の透明度はほぼないに等しいではないか?」

一旦考え始めると、もうそのことが頭から離れない。

私は駐車場に停めた車からパソコンを取り出して、休憩用ベンチで自動販売機のコーヒーを飲みながら。「遺体が浮上するメカニズム」を調べてみた。

まず、通常のご遺体が浮くのは、肺に空気が入っているからだ。我々がプールで何もしなければプカプカ浮くのと同じである。
ただ溺死体は、まず沈む。
浮き袋となる肺が水浸しになって空気を含まないためだ。
しかし、溺死した遺体であっても、時間の経過とともに腐敗が進む。
水中では地上ほど腐敗速度は早くないが、それでも腐敗が進めば、地上と同じように水中でも腐敗ガスが産生され、当然ガスによる浮力が生じ始める。
溺死して沈んでいたご遺体が時間が経つと再び浮かんでくるのは、この「ガスによる浮力」が働くからだ。ということは、腐敗が早く進めば腐敗ガスも早く産生され、浮かんでくるまでの期間も短くなる。
ちなみに腐敗ガスの浮力というのは侮れないパワーがあり、体重と同じくらいの重りを付けていても浮上したという報告があるくらいだ。
では、浮かんでくるまでの時間(=浮揚時間)はどれほどなのか。
これは、腐敗ガスの産生量や沈んでいる深さ、水温などに大きく左右されるという。
具体的には、夏は水温も高いから腐敗の進行が早く体の上昇まで数日、真冬なら時間がかかって数ヶ月かかったりと、ずいぶん幅がある。
また、水深が深くなると水圧も高くなって、深いほど腐敗ガスによる浮力は相対的に弱くなってしまい、水深が深い場合は多少の腐敗ガスくらいでは浮上しにくくなるという。
これも具体的には、水深10mなら水温11℃以下、水深20mなら水温13℃以下、水深30mなら水温14℃以下なら浮上せず、水深40mなら通常の水温では沈んだままで不思議はないという。
生坂ダムの水深は、満水位でその40メートル。
3月1日の水温は10度もなかったろう。
溺死した青年の遺体が28日間浮上しなかったのは至極当たり前と言えるようだ。
考え始めると身の毛もよだつ新たな疑問
では逆に、湖底に沈んだまま発見などできなかったろう遺体を、なぜ警察は発見できたのか。
警察は、犯人たちの車の行方を完全に見失っていて、青年を連れ去った公園からはるかに離れた生坂ダムに連れて行かれたなど、20年も後になってわかったことなのに、なぜ?
そう考え始めると、遺体発見後に「自殺」と断定したことはますます不可解になる。
①見知らぬ男たちに連れ去られている ②なぜ生坂ダムに行ったのか ③なぜ自分でロープを縛ったのか ④彼女とデートした男が直後に自死する不自然……。
どう考えても、自殺ではないだろう。
発見後に遺体を調べた警察が事件性を否定し、自殺と断定するには、上記の不自然さをすべて説明できなければならない。
なのに、いち早く「自殺」と断定して、捜査を早々に切り上げた長野県警。
穿って考えれば、背筋が凍る。
怖くなって、再び道の駅の施設に入った私は、その恐ろしい「仮説」を封じ込めるために買い物で気を紛らわそうとしたが楽しめず、トイレをお借りすると早々に道の駅を後にした。



