
3月12日午前10時、緊急役員会が始まった。
何が話し合われるか、何も聞かなくても私にはわかっていた。
「代表」と呼ばれるこの会社の二代目ボンボン社長と、判で押したようなイエスマン役員8人と社外役員の私で構成される役員会は、いつも「代表」の独演会でしかなかった。
会議は全て私が想像していた通り過ぎて終始笑いを堪えるのに必死だったが、代表は一言一句、私があらかじめ原稿を書いてそれを読ませたかのように、こう切り出した。
「東北が大変なことになった、稀に見る国難だ。」
「来年予定している50周年記念事業についてはともかく、予定していた旅行は東北へのボランティア旅行にしようと思うが、みんなどう思う?」
イエスマン役員たちは、みな揃って、大きく頷く。
ブルシット役員Nが言った。
「社員の魂、心を磨く、絶好の研修になりますね!」
私はたまらずコーヒーを吹き出したが、咳込んだふりをして誤魔化した。
「ドクターX」のドラマを見ているような
いつものことだが、あまりにも滑稽な風景なのである。
「ドクターX」の、西田敏行の取り巻き連中の、あの「御意!」を想像してほしい。
代表も代表だ。何でもかんでも「大賛成です」としか言わないイエスマン役員、こんな奴らを相手にして裸の王様になって、何が面白いのだろうと思うのだが。
そしていつもそうだったが、最後に意見を求められるのは、やはり私だった。
「よく、こういうことになりますね。」
こう切り出した私は、一人、反対意見を述べた。
「最初は阪神大震災の時でしたっけ、その時に旅行が計画されていたかどうか、当時私は御社の広告宣伝の受託会社にすぎませんでしたのでこの役員会にもいませんしだから存じ上げておりません。しかし少なくとも5年前には能登の地震があって、その時に、確かハワイだった行き先が急遽能登に変更になりました。で、また今度、ハワイをぶちあげておいて、東北へボランティア、ですか。二度あることは三度あるとも言いますが、社員従業員からしたら、またか、と言うことになるでしょうね。」
代表は急に不機嫌な顔になった。
役員会は、クソどうでもよい「茶番劇」
他の役員がそんなことを言おうものなら大声で怒鳴りつけ、間違いなくクビにするだろうほどのワンマン経営者である。彼にはもう一つ大きな特徴があって、それはどんなに極端なあからさまな偽善であっても、とにかく「美談が大好き」なのである。
背景には、創業者の息子として期待された学力がなく、結局、創業者が死ぬまで認められることがなかったということがある。彼は大人になって、「承認欲求」の怪物になってしまった。
承認されるためには何だってやる。それがどう見えるか、客観性は全く持ち合わせていない。
だから、彼が今日、東日本の大災害という千載一遇の「美談のチャンス」に間違いなく飛びつくということは、容易に想像がついていたと言うわけだ。
阪神淡路大震災、能登地震、そして東日本大震災。
彼はボランティアを好み、それをことさら大袈裟に塾の宣伝ネタに使う。
そう言う意味では、一貫している。見事に。
よくも飽きないものだとも思うが、彼があまりにブレないことに妙に感心してしまうこともある。
ということで、今回も私一人が反対したところでどうなるものでもなく、いつものように、代表が言う通りの決着となった。
すべて予定調和、「茶番」である。
クーデター「越生の乱」は失敗に終わった
それにしても一体、この会社の役員って、何のために存在しているのだろう。
役員たるもの、経営に責任を持たねばならないのは当然だ。
代表の暴走を許し、それが会社に打撃を与える行為である際には、身を挺して止める、そのぐらいのことができないものがどうして役員と言えるだろうか。
一年前、2010年の秋、私は代表を解任しようと、社外役員の分際でクーデターを起こした。
代表の祇園遊びは酷いもので、親御さんから頂いた月謝で散財。それだけならまだいいが、会津小鉄会のヤクザもんの女に引っかかって、マンションは与えるわ、付き纏われるわで、もしこんなことが明るみに出ようものなら、いやしくも教育をやっている会社として一発アウトだろう。
と言うことで、今でいうコンプライアンスの観点から、会社の顧問弁護士に報告して事実関係を話した上で、動議提出の前日夜には代表の妻でありNo.2のポジションにあった専務を呼び出して、代表交代の確約をとっていた。
「コンプライアンス上、最悪のことになりかねません。明日代表の解任動議を出しますが、次期代表をおつとめになる覚悟はおありですか?」
彼女が首を縦に振ったから、私は役員会に解任動議を出したのだった。
役員会の間中、彼女は終始俯いていた。
私以外の、イエスマン役員全員は代表に睨みつけられ、縮み上がって動議を否決したが、彼女もまた否決側にまわっていた。
よくある話じゃないか。
これが人間だ。
さて こうなると、クーデターを起こした者は戦犯、有無をいわせず即刻解任されるというのが自然な流れである。
しかしどういうわけか、クーデターを起こした私は解任もされず、降格や減給もなしで、その後も2年間、クソどうでもよい仕事・ブルシットジョブを続けたのであった。
クーデターを起こして処分されたなかった理由とは
会社が私をなぜクビにしなかったのか、想像はつくが本当のところはわからない。
多分、代表自身の落ち度を10年以上にわたって側近中の側近としていろいろ知り尽くしている私である。また解任動議提出前には、会社の顧問弁護士とも事実関係を共有し、弁護士も私の判断を否定してはいなかった。
解任動議提出前夜に私に詰められた妻はおそらくその夜遅く弁護士と相談し(おそらく代表も交えたか)、動議の否決を決め、事後処理の方針も決めたのだろう。
ただ、歯に絹着せぬ私をクビにして野に放つのはあまりに危険、殺してしまうのも危険、組織の中に囲い込みこれまで通りの金を渡して、子飼いにしておくほうが安全だという判断をしたのだろう、とにかく私はその後2年間、報酬も変わらず、クビにもならなかった。
2013年3月末、私はこの会社の社外役員(関連会社の代表取締役を含めて)辞めたが、それは2011年3月11日東日本大震災があった夜に決めた通りの、「自己都合」による辞任であった。なぜすぐに辞めなかったかというと、2012年の秋に「50周年記念事業」と言うのが私の仕事として与えられていて、この仕事を途中で放り出すのはあまりにも無責任だと判断したからだ。
この仕事を2012年の秋に終え、引き継ぎをして2013年の3月末をもってこの会社の役員を辞めて自由の身になるということを決めていた、その通りにことを運んだのだ。
ちなみに、私の退任後には、代表はこのクーデターを「越生の乱」と呼んで、私をけちょんけちょんにこき下ろし、極悪人扱いしたらしい(笑)。
かたや私はコンサルタントとしての守秘義務をひたすら守って、こうしたことを12年間誰にも一切話してこなかった。技術上の最重要な情報でも「5~10年」、それ以外の営業などの情報であれば「1~5年」が守秘義務年数であり(永遠の主義義務契約は無効)、私は12年間沈黙していたのだから大したもの、まさにコンサルの鑑ではないか(笑)。
ということで、クーデターの犯人扱いで「越生」の名前をずいぶん前から出していただいているので、私もこのクライアントの名は「成基」であると今、明言しよう。
株式会社表現は「あげまん」だった
話は20年遡る。
リクルートを辞めて33歳で独立起業した私は、設立した会社に「表現」という名を冠した。
「表現」こそは、私の独自能力であり、映像表現からデザイン、文章表現に至るまで、表現することの総合力において誰にも負けない自信があったからだった。
「表現」する人が、それまでやっていた人間から私に変わることによって、どれだけ結果を変えることができるか、ということを、私が創業した会社「表現」の存在意義とした。
現在「表現」は、創業時からの相棒である丸山典久が経営している。
私は、「表現力」は特別な才能であり、組織化によって高めることは不可能だと思っていたので、創業から10年間、私の「全盛期」を捧げ大きな成果として残したあとは、若い彼が本来やりたかった人に関する事業(採用と人財化)に会社の後を託して、私個人は創業当初の役割を終えて会社を去った。
その10年間に、相棒・丸山典久と成し遂げた大仕事の一つが、5年で売上倍増を二度、つまり10年で4倍以上の500億円の売上規模に導いた京都第一科学(のちのアークレイ)の広告宣伝部門完全受託であり、このクソどうでもいい役員たちが雁首並べる「成基」も、私が広告宣伝全部の受託をコンペで勝ち取って以来17年間、想定通りの結果を出し続け、増収増益に貢献してきたのだった。
まさに、弊社「表現」は、「あげまん」そのものだった。
二代目ボンの私利私欲が会社をダメにした
私たちの創業当初、1991年早々に、丸山典久は京都第一科学という会社から仕事をとってきた。
そこから、京都第一科学のアンビリーバブルな急成長は始まった。
1960年に創業し30年間で100億に達しなかった会社の売上が、5年間でいきなり倍増、200億円となったのだ。その後も弊社「表現」は広告宣伝部門全体だけでなく人材採用も全て任され、その後の5年間でさらに売上倍増、年商400億円を超える規模の会社への成長に貢献したのだった。
そして10年一区切り、2000年に私自身が子育てを優先して「表現」を辞め、当然のようにアークレイとの広告宣伝契約もその後打ち切りとなったが、その包括契約を終えたのその後、同社の成長は嘘のように、ピタリと止まったのである。
二代目ボンボン社長の我欲が爆発、暴挙の連続で、退職者が続出し始めたと聞いた。人事制度についてはサポート外の分野だったが、元々給与は高くないということは耳にしていて、「10年で4倍増以上の成長をしているのだから毎年数千円程度しか上がっていなかった昇給幅を大きくするように」丸山典久がアドバイスはしていた。
Bリーグの前身bjリーグ時代には京都ハンナリーズのオーナー企業でもあったが、そのポジションもとうに手放した。人材の流出がとにかく止まらないのだとの嘆きは時折私の耳にも入ってきていたが、コロナ禍の時期には全社員昇給無しの措置が取られたと聞いた時には、さすがに「自分の資産取り崩しは一歳なしで、社員に対してそこまでやるか」と開いた口が塞がらなかった。
この2代目ボンボン社長は、育ちが相当悪いのか、当時から「我欲」丸出しのドケチ男だった。
ラジオCMの制作現場に私がいるところを、彼が訪ねてきたことがあった。
缶コーヒー一つの差し入れもなく、思い返せば、10年間広告宣伝部門と採用部門の一切をアウトソーシングしていた当社なのに、一度たりとも彼と会食したことはなかった。
彼は、他人のために使う金は一銭たりとも惜しむ、そんな男だった。
海外資産など自分の資産形成にひたすら没頭し、「私利私欲」を満たした彼は2012年1月、会長の座に収まった。
しかし、おそらくもうこの会社、かつての輝きを取り戻すことはないだろう。
客観的に現状を見る限り、戦略的にも商品的にも、現状維持すら難しい状態にある。
何より「技術」で生きてきた会社の、「技術者」の離職率が、3年で50%。
もう、終わっている。
オウム真理教の理系エリートたちと田村嘉則
かたや「成基」に対しても。
広告宣伝すべての受託をコンペで勝ち取って以来17年間、弊社「表現」は、増収増益に貢献してきた。
「成基」のコンペに参加した当時、1990年代前半に急速に信者数を増やしたオウム真理教が社会をざわつかせていた。

特に理系のエリートたちのカルト入信が問題視され始めていて、「彼らの育ち方=塾→中高一貫」への疑問も、一部では囁かれるようにもなっていた。

コンペに勝利した弊社「表現」は、東北大学から京都大農学部食品工学科修士課程を修了し、トライアスロンに打ち込む田村嘉則を「成基」のイメージキャラクターに起用し、メディアミックスによるキャンペーンを展開。若い時にしかできないシドニーオリンピックへの挑戦、そして文武両道の彼の生き方を、ただ勉強すればよしとする親たち、そして社会に問いかけた。
この際、「成基学園」のスローガンは私が提案した「進学塾であり人間塾である」に変わり、30年以上経った今なお変わっていない。
バイオテクノロジーの研究とトライアスロンの双方に打ち込んでいた彼は、西京味噌、成基学園のスポンサードを得て、プロトライアスリートに転向した。アイアンマンのトップレースである宮古島トライアスロンでは第10回~21回にかけて活躍し、私が密着取材した第11回では準優勝、第14回では悲願の優勝を果たしている。
私が田村嘉則に注目したもう一つの理由は、彼が常識を疑う姿勢を常に持ち、言われた通りにするのではなく自分で「創意工夫」す人物であったことだった。
皆は馬鹿にして誰も真似るものはいなかったが、彼だけが、バイクに専用シューズを用いず、ランニングシューズで乗っていたのだ。そして、そのような乗り方をしてタイムが変わらない、優勝できるということを実証していたのだった。
そもそも、バイクシューズを履いてペダルを漕ぐのは、足がペダルに完全に固定されて、引き足が使えるためである。引き足というのは、ペダルを上に持ち上げる時に上向きにペダルに力をかけることだが、果たしてそれは正しいのか、バイクの後のランで靴を履き替える時間よりもタイムが縮まるのか、彼は常識を疑い、自分一人、独特のスタイルで勝負していたのである。
彼は私にこう言っていた。
「引き足を使うには腸腰筋を主に使います。踏み足では大臀筋、中臀筋と言った筋肉を使います。体幹に近い筋肉ほど白筋の割合が多く疲れにくいからです。しかし、引き足と言っても本当に上向きにペダルに力がかかるほどは使ってないのが普通で、私は持ち上げる足の重さを軽くする程度の引き足で十分だと考えています。」
「それよりも、ペダルに足を固定することのデメリットを考えてみてください。バイクには155kmを6~7時間乗り続けなければいけません。固定されていると同じ足の向きに固定されて、同じ動きを6~7時間続けることになります。終わると関節が硬くなってしまっていて、スムースにランニングに移れないのです。またシューズ自体も硬く作ってあるので、足が痛くなります。途中3~4回は自転車を停めて用を足すことがあります。その時にバイクシューズだと固定と取り外しに少し神経を使います。ジョギングシューズならば履き替えの手間もいらず、バイクが終わってすぐにランに飛び出すことが出来るのです。」
死刑と、長く幸せな人生の分岐点にあったもの
当時、田村嘉則と同世代の、理系エリートたちがカルトに救いを求めていたのは、「塾で言われたことを言われたように処理して高得点を稼ぐことを教え込まれ、その後もそれしかできない人間になってしまった故の行き詰まりからである」と私は考えていた。
田村嘉則のように、何事も「自分で考える」習慣こそ、生きる力なのだと直感したのだ。
私は、塾生たちには田村嘉則の「自分で考える」習慣の大切さを彼らが使う下敷きや鉛筆などの文房具に表現して、彼らに説い続けた。
その後、田村嘉則は、目指していたシドニーオリンピックには出られなかったが、プロとしてその後も競技を続け、さまざまな大会で優勝を重ねた。
そして、プロ引退宣言後は一旦きっぱりとトライアスロン界から去り、妻との間にできた2人の子育てに専念。生活の安定基盤をしっかり作って、生活基盤と子どもたちの成長と共に歩む期間を経てから、現在は再びエイジアスリートとしてトライアスロンに復帰して競技の楽しんでいる。
同世代の理系エリートたち13人(刺殺された村井秀夫を含めると14人)が、地下鉄サリン事件の実行犯として逮捕され罪を問われている間、田村嘉則は幸せな家庭を築き子育てを軌道に乗せた。

そして、13人に死刑が執行された2018年、田村嘉則はトライアスロンのエイジアスリートとして復帰して、まさに可能性無限大、プライスレスな第二の人生を歩み始めているのだ。
同じ超優秀な「理系エリート」の人生。
それがこれほど明暗くっきり、あまりに対比的な人生に分かれた。
「言われた通りを疑うこと」を、塾は子どもたちに絶対にさせない。
限られた時間で合格ラインに到達するためには、そんなことは無駄でしかないからだ。所詮中学入試などは、言われた通り疑わずに早く再現する能力だけで突破できるものでしかない。
子どもたちは素直である。それを褒め称えられたら、よほどの変わり者でない限り、自分の生き方はそれでいいということになってしまうのだ。
しかし本当は、「言われた通りを疑うこと」「自分で考えること」こそ。
人生において「四葉のクローバー=万に一つの幸せ」をつかむための唯一無二の習慣なのである。
二代目ボンの言いなりでしかなかった役員たちが会社をダメにした
「あげまん」の私が「成基」の社外役員に就任したのは2000年。
そこからも退任するまでの13年間、塾生は増え続け、増収増益は続いた。
私が退任したのが2013年3月末のことだ。退任時も、業績は極めて順調だった。
しかし翌々年からいきなり、「成基」の業績の急降下は始まったのである。
少子化もあろう、事業のダウンサイジングだって悪くはない。
しかし、2019年にはついに赤字に転落した。売上の減少は少しずつならいいが、収益の急速な悪化だけはダメ、赤信号だ。
考えてみれば、代表は可哀想な人だ。
父親から承認されたことがなく、承認欲求の怪物になってしまった。
そして、ずっとブルシットなイエスマン役員に裸の王様にされ続けて、最近になって息子に代表の座を譲ったら、途端にこれまでのボロが一斉に噴出して、会社が年々ダメになっていく。
可哀想な人だと同情はするが、全ては身から出た錆ではある。
そろそろ会社のたたみ方を考えた方がいいだろう。
そのあたりは、気前だけは最高に良かった代表とは真逆で、社員のことなど微塵も考えていない我欲丸出しNo.2の妻が常に「会社の売り時」を考え続けシミュレーションし続けてきた人だから、きっと抜かりはない、どこかのタイミングで会社を売り飛ばしてくれるだろう。
私としては、代表の持病・糖尿病の悪化だけが心配だ。
代表は、私が長らくお世話になったとても大切な方である。
是非とも長生きしてほしい。
(つづく)
この連載は、昭和を30年、平成を30年、そして令和をまだ生きている「神生 六(本名:越生康之)」の人生の記録であり、遺言として残すものでもある。