織田信長・信忠・信孝ら三人の安堵状が保管されている武芸八幡宮へ、現代社会の見本のような道の駅「むげ川」から(トイレ○仮眠○休憩○景観○食事◎設備◎立地○)

岐阜市街地から北にある関市武芸川町に鎮座する武芸(むげ)八幡宮神社は、織田信長と非常に関わりの深い神社だ。
岐阜城から鬼門の位置にあることから、信長はじめ長男信忠や三男信孝も、主君が家臣の所有権等を許可・保証(安堵)する文書である「安堵状」を送るなど、武芸八幡宮神社は織田家から非常に大切にされてきた。

現在でも馬の背中に縁起のいい花をのせ参加者で奪い合い、手に入れた花を家の屋根に上げる(上げると「落雷防止」「家運隆盛」にご利益があるという)「花馬まつり」が毎年4月中旬に行われ、岐阜県独自の社格では最高位の「金幣社」に指定されるなど、多くの崇をを集める神社である。

灯籠の立ち並ぶ長い参道とその先にある立派な社殿は、いかなる寺社仏閣をも片っ端から焼き払ってのけた信長をして一目置かしめた、荘厳極まる雰囲気がある。

武芸八幡宮の成り立ち

養老元年(717年)泰澄大師が「大碓命」を祀ったのが武芸八幡神社の始まりだ。

その後いつの頃からか、応神天皇を神として祀り、観応二年(1251年)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が社殿を再興した。蘭丸はご存知の通り、織田信長が可愛がった小姓で、本能寺の変で信長を守りながら最期を遂げた若者だ。

武芸八幡宮の第1鳥居から本殿までは約1300mもあり、その途中には地蔵堂や不動院、大聖寺などが数多く建てられている。また、武芸八幡宮には、樹高約38m、樹齢約千年の「大杉」や、「これより奥に進むには、馬や駕篭から降りて歩きなさい」という命令を下した標識である「下馬標」など、見どころがたくさんある。

信長の面影を残す八幡宮

織田信長は、永禄十年(1567年)に稲葉山城(岐阜城)を攻略する。さらに、人心を治め経済の繁栄を図るために楽市楽座を設けたり、寺社には禁制や安堵状を与えたが、そのうちの一つを武芸八幡宮に与え、信長はこの武芸八幡宮をとても大切にした。というのも、この神社は、岐阜城からみると丑寅といって北東の方角に当たり、鬼門鎮護として重要な位置を占めていたのである。
このように信長・蘭丸共にゆかりの深い八幡宮らしく、八幡地区には今も「小田野」という小字名が残っている。信長は、毎年10月15日に代参を八幡宮へ送っていたが、その代参をお迎えした所の字名が「小田野」である。元は「織田野」だったが、恐れ多いと、読み方はそのままで後に「小田野」に改められた。

織田家の最期と武芸八幡宮

織田信長が、稲葉山城を攻略したのは、永禄10年(1567)のこと。合理的で進取の精神に富む信長は、井ノ口を岐阜と改め、稲葉山城を岐阜城とした。

さらに、人心を治め経済の繁栄を図るために楽市楽座を設けたり、主な寺社には禁制や安堵状を与えたが、織田信長がこの武芸八幡宮に安堵状を届けたのは永禄10年10月のことで、どの寺社よりも早かった。その後、天正4年(1576)信長が近江の安土城へ移ると、岐阜城は長男の信忠に譲ったが、その年の12月には信忠も信長の意思を継いで武芸八幡宮へ安堵状を与えている。

天正10年(1582)、本能寺の変で信長・信忠親子が敢えない最後をとげると、岐阜城の実権は、織田信孝へと移ったが、織田信長の三男であった信孝も天正10年(1582)7月、やはり武芸八幡宮へ安堵状を届けている。

この後、関ケ原合戦とともに、岐阜城主としての織田家は滅んでしまうのだが、現在武芸八幡宮には織田信長・信忠・信孝と三人の安堵状が保管されている。

花馬まつりと千本桜

武芸八幡宮では、毎年4月中旬(15日に近い日曜日)に花まつりが行われます。

笛太鼓の調べと共に、雅な神楽館と桜の造花で飾られた花馬が登場すると、その手綱が緩んだ途端に参道から祭り広場に花馬が駆け込んでくる。

すると氏子や見物人が我先にと、この暴れる花馬の造花の奪い合いが始まるというものだ。
なぜ奪い合うかというと、この桜の造花を輪にして屋根に上げておくと、落雷防止や家運隆盛になると言い伝えられているからだ。

また、武芸八幡宮から程近い、関市武芸川町の北部、標高220メートルの寺尾峠と寺尾地区を結ぶ県道沿いには桜の名所「寺尾ヶ原千本桜公園」がある。

県道沿いに実に2kmにわたって続く桜は、まさに千本桜の名に相応しい。

4月上旬から中旬にかけて、実に見事な『桜のトンネル』をつくる。

少子高齢化に立ち向かう道の駅「むげ川」

東海環状自動車道の関広見ICから国道418号線→県道94号線を通って北西に3km、 岐阜県南部の旧武芸川町(現関市武芸川町)に、道の駅「むげ川」はある。

駐車場は、規模なりにちゃんとしているが、驚くのは、車のナンバーが地元ナンバーばかりであることだ。

トイレは、もちろんこぢんまりとしたものだが、綺麗に清掃していただいていて、ありがたい。

トイレを出て、その前のベンチに腰掛け、施設全体を見渡してまず気になったのは、これはモニュメントだろうか。一体これが何かが気になった。

近寄ってみると、「燦々桜樹(さんさんおうじゅ)」というタイトルが付けられた、造詣美術家の麻生秀穂氏の立体芸術作品らしい。

説明には「武芸川町の大地を彩る桜樹に想いを映し、人間の創造性と自然の摂理を象徴的に表現しました。 地中海の空の下、カラーラの山懐に育まれた白亜の大理石は遥かな故郷を偲びつつ、 未来の夢を此処にむすびます。」と記されている。はっきり言って、何が言いたいのかよくわからない(笑)

それより、川の方を見るとポツンと一羽の水鳥が。こいつの方が語りかけてくるものを感じる。アートというものはいかにも難しいものだ。

ちょっとした休憩はとてもしやすい道の駅と感じた。

高齢化に負けないでほしい農林産物直売所

本駅は物産館、農作物直売所、レストランから成る施設構成だ。
まず、道の駅の農作物直売所、もとい正しくは「農林産物直売所」のことを。この名には、道の駅むげ川の始まりともなったポリシーが込められているという。

この「農林産物直売所」では、武芸川町や近隣市町村の登録農家さん約60人の新鮮野菜を販売している。かつては120人ほどの登録農家さんがあったそうだが、現在では半数ほどに。

高齢化も進んでおり、野菜を出品されるほとんどが70歳以上の方だそう。

例えばピーマンがこれだけ入って百円とは、安すぎ。

農家さんがこれほど苦しみ、そして減っていくのは、ほんと何かがおかしいよ、この国は。

こちらは19年も農薬と化学肥料を使わず育てたトマト!これだけ入って150円。車には冷蔵庫があるので買ったが、美味しくいただいた。

こんなに安い価格設定でも、道の駅むげ川の売上の約50%が農林産物。地元の人が、開店直後から押しかけて、早い日では午前中に完売するのだとか!
その商売の細さというか、地道さというか、愚直さというか。正反対のような大雑把に生きてきた自分の人生を振り返り、頭が下がる思いというしかない。

物産館の商品の種類は目測でおよそ300種類ほどだろうか。

「むげ川あんぱん」で町おこししてほしいパン工房

物産館の一角にパン工房がある。

工房内にはパンを焼くオーブンがあり、次々と焼きたてパンが供給される。焼き立てパンが美味しいと、近隣市町村から車で30分ほどかけて買いにくるファンの方もいるらしい。

人気のパンは「むげ川あんぱん」。

少し小ぶりだが餡がしっかりと詰まっているのが特徴。

これまた一個、税込150円で購入できる。 何やらここにいると昨今の物価高とは無縁のようなw

「子ども食堂」で地域の子どもを大切に育てる

物産館の奥には道の駅レストランがある。そこには、「むげ川子ども食堂」の看板も。

道の駅むげ川では「むげ川こども食堂」を毎月開催。地域の子どもたち同士で食事を楽しみながら交流を深めてもらうことを目的とし、2018年から続けてこられた。

参加費は、子ども1人なんと100円だ。

メニューや調理は道の駅むげ川のレストランスタッフが。調理の手伝い、配膳には民生委員の方々がボランティアで。

一人100円では、運営費は持ち出しになるらしいが、こどもたちが将来「道の駅で飯食ったよね〜」「楽しかったよね〜」などと、思い出を話してくれればそれで良いのだと。

それを聞いて、私はまさに頭の下がる思いになり、胸は熱くなり、涙が溢れてきた。

これぞ、地域で子を守り育てる、まさにその見本ではないか!
たまたま、現在、私は地域の自治会長。

私の地元でも、地域で子を育てる、そんな輪を広げ、積極的に関わっていきたいと強く思った。

道の駅「むげ川」は、2023年3月にリニューアルしたらしい。

元々はかなり地味な道の駅だったというが、リニューアル後もしっかり地味である(笑)。

それも当然で、なにしろ道の駅として与えられた用地は武儀川と県道に挟まれた、相当に狭い土地である。しかし、その中身は何よりも尊い。

ここでは、「少子高齢化」という日本の最大課題に、地域住民が力を合わせて向き合っている。

地味上等だ。

地産地消、需給のバランスが取れていればなんとかなる。

子ども食堂が地域社会の役に立ち、日本の未来に貢献している。

これからも地元客を中心とした落ち着いた雰囲気の道の駅として、地元民と共に、未来に向かって歩んでいってほしいと願う。
がんばれ、そしてありがとう、道の駅「むげ川」。