
小林一茶は江戸時代後期の俳人。
松尾芭蕉、与謝蕪村と並んで、江戸時代を代表する三大俳人の一人とされている。一茶が生涯に詠んだ俳句は、現存する数で一茶は2万句以上ある。ちなみに松尾芭蕉は約1千句、与謝蕪村は約3千句だから、圧倒的に多い。一茶の有名な俳句には「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」「名月をとつてくれろと泣子(なくこ)哉(かな)」「雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)」などがある。
小林一茶は、1763(宝暦13)、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれた。
本名は弥太郎。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえたが、働き者の義母になじめなった一茶は15歳の春、江戸に奉公に出される。
奉公先を転々としながら、20歳を過ぎたころには俳句の道をめざすようになっていたという。
俳句を学び続けた一茶は、いったん29歳で14年ぶりにふるさとに帰ったが、すぐ30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、39歳のときふるさとに帰って父の看病をする。
父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して1か月ほどで亡くなってしまったが、この後一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続いた。
一茶は、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導して生計をたてた。貧乏と隣り合わせの暮らしとは裏腹に、俳人としての一茶の評価はどんどん高まっていった。
50歳の冬にふるさとに帰った一茶は借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解する。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、四人の子どもが次々に生まれたが全員幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまう。
一茶はひとりぽっちになったが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれている。
このように、家庭的には決してめぐまれなかったようだが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残している。
1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みんだが、この年の11月19日、65歳の生涯をとじた。
生きる、死ぬ、孤独、そして老い……。小林一茶は、人間の切実な苦悩を俳句にして詠んだ。
私にも、生きることに迷ったときに思い出す一茶の俳句が5つある。一茶が生まれ、死んでいったこの地の景色を見ながら、それらを噛み締めてみたい。


蝶とぶや此世に望みないやうに(ちょうとぶや このよにのぞみ ないように)
私的には史上最高のボクサー・モハメドアリは「蝶のように舞いハチのように刺す」と言ったが、蝶は、あっちこっちひらひら飛びまわる。それを見たら、普通はキレイだなあとか、楽しそうだなあとかそんなふうに感じるだのろう。
しかし一茶は違った。この世に望みがないように、つまり、途方に暮れてあっちこっち飛んでいるように見えたのだ。
かく言う私にも、たとえば投資成果に一喜一憂したり、闇雲に私利私欲を満たすために彷徨う人たちはそう見えている。
じつとして馬に嗅がるゝ蛙哉(じっとして うまにかがるる かえるかな)
馬がくんくんとカエルのにおいを嗅いでいて、カエルのほうはどうなることかとじっと動けずにいる。大きな馬と小さなカエルとが対比されている句だが、地位が上の人とか、運命とか、大きなものに対してじっと動けずにいる人間もまったく同じだ。
サラリーマン時代の私もそうだったが、多くの人はそうやって生きている。
人間って悲しいものだなとも思うが、自分の生き方を見つめやすくもなる。
目出度さもちう位也おらが春(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)
一茶が57歳のときの1年間の出来事をまとめた『おらが春』という句集があるが、その一番最初に出てくる句だ。「春」というのは正月のことだ。お正月はおめでたいものとされていて、みんなで「おめでとうございます」と言い合うわけだが、一茶はそこで「目出度さもちう位也」と言っている。
おめでたいかおめでたくないかという、どっちかに考えがちだが、〝あいだ〟もある。一茶の故郷では「ちう位」には「いい加減」という意味もある。
現実には、多くの人が〝あいだ〟に生きていて、お正月くらい「おめでとう」と言い合うのが普通でも、それもできない人たちにとっては、この一茶の句には慰められる。
我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやの ないすずめ)
親のないスズメの子に、自分と一緒に遊ぼうと呼びかける一茶。
「親のない」というのは一茶自身もそうだった。3歳のときに母親が亡くなり、父親が再婚するが、新しいお母さんとうまくいかなかった。特に、新しい母に子どもが生まれてからは毎日つえでぶたれていた一茶。外でも“親のない子”として差別されていた。つまり家にも外にも、安心できる居場所がなかったのだ。
自分が悲しい思いをしていたから、同じような境遇の小さな生き物にも優しい目が行き届くようになったのだろう。
笋のうんぷてんぷの出所哉(たけのこの うんぷてんぷの でどこかな)
「雨後の筍」と言われるように、たけのこはいろんな所にニョキニョキ生えてくるが、その場所によって立派な竹になれたり、そうでなかったり、小さいうちに採って食べられてしまうかもしれない。
自分で選んで生えてくるわけではなく、全て運まかせ。そんな筍のように、人間もどういう家に、どういう親のもとにどういう体で生まれてくるか、これは自分では選びようがないし、自分のせいではないということを一茶はこの俳句で言っている。
一茶の故郷、高原の道の駅「しなの」
上信越自動車道の信濃町ICから国道18号線を南に僅か80m、小林一茶の故郷・長野県北部の信濃町に「道の駅 しなの」はある。

駐車場自体が、周りの自然に溶け込んだ感じ。とても開放的だ。




トイレは、新しいわけではないが、しっかり清掃していただいているおかげで清潔感が保たれている。



休憩環境としては、空気のおいしさや景色を含めて、とても良い。



道の駅の近くには、スキーでも有名な黒姫高原がある。
この高原の真夏の昼間は30℃を超えることもあるが、夜間の涼しさがすごい。 7月の平均最低気温は18℃で冷房が不要である。
黒姫高原や斑尾高原、野尻湖クルージング、小林一茶の記念館など周辺の観光施設がとても充実しているので、真夏に避暑のために訪れて、車中泊するととても快適だろう。
信濃町の特産品は多彩
道の駅には、物産館、農作物直売所、レストラン、観光案内所がある。



物産館の入り口付近に信濃町特産品コーナーがあるが、信濃町の特産品の多彩さに驚かされる。
「いっさっさ」という名の農作物直売所も同様だ。

物産館と農産物の特産品をざっと列挙すると、八町きゅうり、もろこしポテト、もろこしスープ、雪室そば、雪室米、ボタ胡椒ごはん味噌、ボタつゆ、もろこし麺、 ブルーベリーソフトクリーム、くるみそば、くるみそばつゆ、銘菓「雷鳥の郷」、信州栗かのこ、りんごパイケーキ、 りんごジャム、ルバーブジャム、りんごジュース、ブルーベリージュース、黒姫カマンベールチーズケーキ等々。

黒姫高原のソフトクリームが人気

道の駅レストランの名前は「天望」。
そば、うどん、ラーメン、カレー、丼物などを提供している。
牛乳ソフト、ルバーブソフト、チョコレートソフト、ブルーベリーソフトなど、黒姫高原のソフトクリームも人気だ。