人生の春が、43年の時を経て箱根でデジャヴ。私の人生はもう一度、この春から再生する?

いま季節は、一年に一度決まって訪れる春爛漫だ。

一方、人生の「春」というものは、人それぞれの人生、長さもその様相も皆それぞれ違うものだろう。

「ひな鳥は最初に見た大人の鳥を親だと思う」

これは、「刷り込み」と呼ばれる動物行動学の事象で、実際に確認されていてよく言われることであるが、人間にもこれと似たようなことが起こる。

もちろん赤ん坊の場合は目が見える頃には本当の親が面倒を見ていることが多いため、勘違いすることはほとんどない。しかし、そこからどのような大人と接していくかは、その後の人生に大きな影響を及ぼすのだ。特に新卒で入った会社の上司は、社会に出る「ひな鳥」のごとき新入社員にとっては「親」そのものとなりうる。ゆえに新入社員のその後の人生に与える影響力は非常に大きい。

なぜなら、社会人生活が始まるこのタイミングは、まさに「刷り込み」が行われるような重要な時期だからだ。

ひな鳥は最初に見た大人の鳥を親だと思う

私自身の人生を振り返ると、最初にお世話になった上司、そして2人目の上司の存在こそが、私の人生の基盤になっていると断言できる。

私の「人生の春」は、幸運にも社会に出て初めての上司、そしてバトンを受けていただいた二人目の上司が共に素晴らしい人であったことによって訪れ、その春の生命力があって私の人生の夏が長く燃え盛るものになった、かけがえのない素晴らしい春となったのだ。
私にとっての最初の上司は、蔵野孝行さんである。
時間的には短かかったが、彼から学ばせていただいたこととリスペクトの大きさは、なんと43年経った今なお、私が彼のライフワークの一端である「音蔵カンサイ」のお手伝いをさせていただいている事実があるほど濃密なものだった。

そして、二人目の上司は田中勝さん。

蔵野氏と同世代で、どちらも早稲田大学卒。今も友情で結ばれ交流し続けているお二人だが、蔵野氏から渡された「問題児・私の上司」というバトンを受けていただき、これまた幸運なことに藤江まびなという同期に恵まれ生涯の友として付き合ってくれている人がいて、私は社会人としての成長を始められることになる。

私の人生の春とは、この3人のおかげで1982年に始まった4年の歳月だった。

その春の訪れから、43年の歳月が流れた。

まさにデジャヴのような「春」が、今度は箱根にやってきた。
2025年4月。春が訪れた箱根に、田中勝さんと奥様がまびなと私を別荘にお招きくださったのである。
43年前から始まった私とまびなの人生の春があっての、夏のこと、そして田中さんご夫妻の素晴らしい人生のことを3日間にわたって懐かしく振り返りつつ、これからまだまだ続くわたしたちの人生の夏と実りの秋について、本当に楽しく、語り合うことができた。

40年以上の前のことなのに、まるで昨日あったことのように。
夢のような3日間、その有意義を、しっかり書き留めておきたい。

4月2日11時51分、感激の再会。

まびなと私が田中勝さんご夫妻の箱根別荘(以下箱根の家)を訪ねる、その待ち合わせは4月2日11時51分。箱根の家の最寄りのバス停で、ということだった。
約束の時間は守る、その社会人としての「イロハのい」も、まびなと私は田中さんから教わっていたので、43年後の約束にも遅れるわけはない。

私は明石から車で。まびなはオーストラリアのブリスベンから千葉の友人宅経由で。

そのバス停に、約束の時間かっきりに田中勝さんとの再会はなされた。
まびなも私も、数年前に田中さんの横浜の豪邸(ご自宅)にそれぞれ押しかけてはいたので、田中さんとはそれぞれ数年ぶりの再会ではあったし、まびなと私はリクルートの同窓会、そして京都でデートしたこともあったが、3人一緒の再会となると、10数年ぶりであった。
バス停で降りてきたまびなとの握手、そして3人順次のハグ。
田中勝さんも、まびなも、体型はじめ健康など中身は43年前とほぼ変わらないイメージ。

そしてお元気で、感動のあまり一気に43年の歳月がその瞬間に巻き戻された。

早くも、感極まる私であった。

4月2日正午、昼食で「自然薯そば」をご馳走になる。

バス停から歩いて数分、田中さんのご案内で奥さんが待つ蕎麦処「箱根 自然薯料理しずく亭」へ。

自然薯を使った「麦とろ」のとろろ汁は「擂る人が違えば味が違う」という程、奥の深いものだそう。ご主人曰く、最初は擂り方の研究から始め、今ではより美味しいとろろ汁を求めて、数百年前より涌き続けている、箱根の名水「嬰寿の命水」を汲んできて沸かし、厳選した素材と独自の方法で出汁をとり、とろろ汁を作るに至ったのだとか。

この昼食の席で、まびなと私は、田中さんの奥様文惠さんと再会。
まびなと奥様は「ふーみん」「マービン」と呼び合う仲である(笑)。
私は前回の自宅訪問の際、当時90キロ超であったため、会話中に笑った際に吹っ飛ばした上着のボタンを縫い付けていただいた際のお礼を含め、前回訪問の際のお礼を。そして、ご夫妻に仲人していただいたお礼とその後の「ご報告」をさせていただいた。
この「ご報告」ですっかり肩の荷が降りた私は、この食事からいきなり「思い出話」モードに着火。その足で初訪問となった「田中さん箱根別邸」での「人生春の思い出」が延々続くことになる。

箱根の家の使い方マニュアル

箱根の家に到着したまびなと私は、そのあまりの素敵さに息を呑んだ。

リビングでしばし歓談。

机の上には、田中さんご夫妻がまびなの住むオーストラリア・ブリスベンを訪れた際の思い出のアルバムが。その思い出話に花が咲いたが話はどこまでも尽きないので、適当なところで田中さんがしてくださったのは、「箱根の家の使い方マニュアル」のご説明。

私たちそれぞれの寝室(2階)、各部屋の案内、そして、一通り邸内各設備の使い方を教えていただいた後、広々とした庭の散策へ。

4月2日午後3時、箱根の家の庭を散策

庭のシンボルツリーは関東周辺を中心に自生し、下向きに小さな花を咲かせる豆桜。1センチちょっとの大きさの花が、恥ずかしそうに下向きに開いていて、とても可愛い。

富士山周辺に多いので、富士桜(フジザクラ)や箱根桜(ハコネザクラ)とも呼ばれている桜だ。

私も可愛いでしょ?とまびながアピール。

庭のこのチェアは、私の最初の上司であり田中さんの親友である蔵野さんの大のお気に入り。蔵野さんが一昨年、箱根の家を訪れた際には蔵野さんはこのチェアに座って、長いこと鳥の囀りを聞いて癒されていたそうだ。

鶯をはじめ、山鳥たちが春の訪れを告げていた。

巣はまだつくっていないそうだが、時折、巣箱には鳥がやってくるそうだ。

庭の手入れは田中さんの趣味の一つに。庭にある道具入れの小屋には、グッズがぎっしり。綺麗に整理整頓されているところはいかにも田中さんらしい。

庭の守り神?カエルの置物。風の強い箱根だが、カエルの体内には田中さんが重しをぎっしり詰め込んでいるので風で飛んでいく心配はまずないようだ。
このように、田中さんはなんでも自分でやる人。芸能界でいえば「ヒロミ」のような人だ。そういうところも、単に仕事ができる人を超えて尊敬してしまう。

庭のシンボルといえば、今は上の写真のように私の頭のような状態でも、2日後に見たら下の写真のように勢いよく生えはじめてきた植物。名前は失念してしまったが、初夏にはボウボウになるそうだ(羨ましい限りである)。

枯れたように見える木だが、こんな葉の植物で、枯れているわけではないらしい。

庭に流れる小川に足をつけてみる。とても冷たくて気持ちがいい。
清流なので、夏前には蛍が飛んでとても綺麗だそう。

こういう言い方は、自らの人生全てにわたって自ら機会を創り出し、その機会を現在の成功へと開拓して進んでこられた田中勝さんに対しての誤解を招くことになるかもしれないが、「人生の勝利者」でなければ横浜の豪邸のみならず、この箱根の家、2人のお子様のご邸宅、不動産投資でお持ちの物件などは、到底おぼつかない。
それらの何一つ私は持ち得ないが、田中勝さんは私と同じ会社に11年だけ先に入社され、その後、これらの全てを手にし、尚且つ金銭的にも膨大な資産形成を為された。

この事実に対して、必要以上に卑屈になることはなくても、田中勝さんという人の聡明さ、賢明さ、能力、思うようにいかない時の胆力やその時々の判断力の的確さへのリスペクトは正直抱く。

私が似ているのは、自分自身の判断に責任を持って行動してきたこと。その結果、経済的には格差も格差、あまりに大きな開きはできたが、2025年4月現在、田中さんも私も納得の人生を送っていること自体は変わらない、そんな妙な親近感を抱く私だった。

4月2日午後17時、温泉「一の湯」へ

一の湯露天風呂に浸かりながら、田中勝さんと男二人で長風呂。

神戸で田中さんの元で働いた仲間との思い出、そして近況など話は尽きず、奥様とまびなをすっかり待たせてしまった。

4月2日午後18時、中華料理「大原(たいげん)」へ

景色がきれい
斉藤 誠 氏

有名ホテルで名を馳せた斎藤誠シェフが作り出す中華料理は、四季折々に違う風景を見せる箱根の自然のように豊かな表情があると超人気のお店。
「フカヒレスープ」「ボイルエビ」「酢豚」「炒飯」「春巻き」「ライチ」などを美味しくいただき、私の太鼓腹もパンパン、危うく破れそうになった。

個室がある
しょうゆベースの優しい味わい『フカヒレの姿煮』

4月2日午後7時半より、別荘リビングにてトークセッション

それぞれの人生の、43年前の「春」の話で盛り上がる。
それは、まびなと私の、人生の「春」の話から始まった。
まびなは、大先輩である玉田洋子さんや、同期の営業マン(といっても6歳も年上の)佐藤博幸との数々の思い出話。
服部のりこ、梶目初美、徳永真理子、森本みき…。内定者時代に関西で親交を深めていた仲間が、入社式で「大阪勤務」を告げられる中、まびなだけが「神戸」配属、営業所勤務を命じられたその時のショック、しかも、同期での配属が、「牛乳瓶の底のような分厚いレンズの黒縁のメガネ」を「巨大な鼻」の上に乗せ、とても新卒入社に見えない中途入社のような佐藤博幸であったことで、彼女はショックのあまり?「どうして私だけ?」と人目を憚らず涙を流した。

私はと言えば、どうしようもなく学生気分が抜けない出来の悪かった新入社員がなんとか基本を身につけ、思い切り働いて、人並み以上の業績を上げることができるまで、田中勝さんに迷惑をかけ続けた話をし、改めてお詫びするしかない。
いくつもの失敗談を話したが、中でもどれだけ出来が悪かったかと言う話に特化すれば、担当した泉平という姫路の老舗企業に到着した際に利用したタクシーの運転手さんが元ヤクザで、こちらが万札しか持ってなかったことで喧嘩になり、先方さんにご迷惑をおかけしたこと。また、イズムという、当時神戸の新興アパレルの血気盛んな社長とこれまた喧嘩になったことなどの昔話に花が咲いた。
特にイズムの小田社長の気は私の「喧嘩ならお受けしますよ」という態度に激怒。腹の虫がおさまらず江副さん(当時リクルート社長)の謝罪を要求され、私は田中さんに連れられて本社に事情説明とお詫びに。田中さんに大変なご迷惑をおかけする事件に発展した。道中、機内でも電車の中でも反省のあまり憔悴しきっている私に対して、田中さんは自分の顔に泥を塗られたにも関わらずその件には全く触れず、終始雑談に徹してくれたことを思い出す。

おそらく田中さんはこう思っていたと思う。予想外の大事になったこともあって私には十分反省の機会となっている。心から反省している上に、さらに自分が叱責することには意味がないだろうと。
飛行機が羽田に着き、それから本社に着いて江副さんの後に社長となった人の部屋に通されると、その方は机の上に足を上げたまま、読んでいた新聞を下ろすことなく邪魔くさそうに迷惑そうにこちらを見ていただけだった。のちにリクルート事件で、特に楢崎弥之助の謀で表に出ることになった辰巳さんが、別室で事情を詳しく丁寧に聞いてくださったのだが、この辰巳さんの立ち居振る舞いは今なお非常に印象に残っている。
ちなみに辰巳さんは一般には、リクルートコスモス未公開株を配りまくった実行者として有名になり、当時の労働大臣に直接渡した人物ともされたが、これは労働大臣と辰巳さんが釣り仲間であり、友人である辰巳さんから受け取ったことで自身の収賄性を否定するためだった。実際に彼にリクルートコスモス未公開株を手渡したのは、当時リクルート役員だった間宮舜二郎というのが真相だ。
のちに「江副浩正伝」という駄作を世に出した土屋洋は、出版に反対していた私に対し、間宮舜二郎の悪行を暴くと言って私を納得させたが、実際に出版された「江副浩正伝」には間宮のまの字も、そのことの記述すら一行もなかった。ただ本を出したかっただけの土屋洋の詭弁、狡猾、腰抜けぶりには落胆しほとほと呆れるほかなかった。
それに引き換え、汚名を着せられても凛として、新入社員の起こした不始末にもそれはそれとして真摯に話を聞いてくださり処理してくださった辰巳さんの人としての高潔さ。それは蔵野さんにも田中さんにも通じるものだった。
田中勝さんの新入社員時代の話ももちろんお伺いした。ダイエーはじめ関西の大手企業担当者として、川崎重工業では当時画期的だったリクルーティングビデオを制作。担当していた大手企業との取引を、さらに大きしてナンバーワン営業マンとなる大活躍で、関西の営業マンとしては初となる「海外遊学」を勝ち取って、新人営業マンだった田中さんは世界一周の旅に出た。
クライアントを激怒させ、本社へのお詫び行脚に出た私と、これこそ「月とスッポン」そのものではないか。
そうした、人生の春の話から、奥様を含め4人それぞれの「ルーツ」の話にも花が咲いた。
あっという間に日付が変わりそうになり、まびなと私は2階ゲストルームにてゆっくり休ませていただいた。

4月3日午前8時、別荘ダイニングにて朝食

朝起きて洗顔を済ませ、一階に降りていくと、田中さんご夫妻が、朝食を用意してくださっていた。

とても美味しい朝食をいただきながら、それぞれの人生の、43年前の「春」の話パート2に花が咲く。
昨日からの身に余る、これまでに受けたことのないもてなしを受け、まびなと私は顔を見合わせ声を合わせて一言。
「田中さんが上司で、ほんまに良かったな!」

4月3日正午、お魚料理「うおせい」にて昼食

小田原の早川漁港仕入れの新鮮な魚が食べられる、魚料理「うおせい」へ。まびなと奥さんは刺身盛り合わせ定食を、田中さんと私は大きくて肉厚の「アジフライ定食」と「しらす丼」をいただいた。

「めっちゃ美味しい!」

箱根の家がある仙石原は、ミュージアムの宝庫。

ガラスの森美術館、ポーラ美術館、岡田美術館、箱根美術館、彫刻の森美術館、成川美術館、ドールハウス美術館、ピカソ館、写真美術館等々…。

その中心部にある「箱根ラリック美術館」には、かつてパリ~フランス南部を結んでいた本物の「オリエント急行」がある。クラシカルな車内は、1929年にフランスを走っていた当時のまま。ルネ・ラリックの装飾パネルがきらめく空間で、ゆったりと優雅なティータイムを楽しめる。
ということで、私たちはこのオリエント急行でティータイムを過ごすことにした、というか全ては田中さんのお計らいなのだが。

「箱根ラリック美術館」は、フランスを代表する宝飾とガラス工芸家、ルネ・ラリックの作品約230点を展示する美術館だ。ミュージアムの他にカフェ・レストランやショップ、そして運搬上最大の難所である乙女峠を超えて運ばれてきた本物のオリエント急行がある。

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利用時間は1回約40分間。

エントランスを入って、すぐ左手にあるのが、オリエント急行の受付場所だ。10:00~15:20の間で、受付を行い、先着順で入ることができる。

田中さんに何もかもお任せし、まびなと私は能天気。

1929年にタイムスリップして、豪華列車の旅へ

田中さんからチケットを受け取ると、あのオリエント急行に乗るんだと気分が俄然盛り上がってきた。

さあ乗車の時間。チケットをスタッフに渡すと、昔ながらの改札パンチで、チケットにハサミを入れてくれた。

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おお、この優雅な気品を漂わせる青い列車こそが、世界中の旅人を魅了してきた豪華列車か。

パリとフランス南部を結ぶ「コート・ダジュール特急」として活躍し、のちに「オリエント急行4158E」として2001年まで使われ、多くのセレブリティたちに愛されてきた。 ちなみに現存するオリエント急行があるのは、日本でここだけである。

まびなもフランスを旅した気分で、夢のようなひとときへ。

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オリエント急行の暖房は、石炭を燃やし、その熱で車内を暖めていたそうだ。列車入り口には確かに石炭を入れる場所があった。

ラリックのこだわりが詰まった非日常空間

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椅子や絨毯は現役時代とほぼ変わらない状態だそう。

説明ビデオを鑑賞したら、列車に足を踏み入れます。車内へ進むと、約100年前に造られたとは思えないエレガントな空間が。 かつて「青いプリマドンナ」と呼ばれたこの列車は、高級木材マホガニーがふんだんに使われていたり、ゴージャスな絨毯が敷かれていたり。古き良きフランスの洗練された空間は、もちろん私には似合わないが、田中さんご夫妻にはよく似合う。

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椅子の中に入っているクッション素材は、藁だそう。見た目の美しさだけでなく、長旅にも疲れないよう、快適な座り心地になっている。 また、車両に使われている窓ガラスも昔のまま。現在は量産されていない貴重な逸品だそうな。

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乳白色が特徴のオパールセントガラスを使用した1928年製の「彫刻とブドウ」は、ラリックのこだわりが詰まったガラス装飾だ。

全部で156枚ものガラス装飾が散りばめられており、光がさす場所により、きらきらと表情を変えます。 人物像はすべて同じではなく、男性像が2種類、女性像が6種類あるそうだ。

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チューリップのような形をしたランプシェードも、ラリックによるもの。ふっくら可愛らしいデザインで、小さなお花が咲いているかのよう。

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窓を開けるハンドルや客席番号、呼び鈴も当時のまま保存されている。

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一番奥に現れるコンパートメントルームの壁には、きらびやかな花束が。これはルネ・ラリックの娘スザンヌがデザインした装飾パネル「花束」だそう。

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ラリックに囲まれた空間で、贅沢なティータイムが過ぎていく。

オリエント急行限定のティーセットは、2~3ヶ月ごとに変わるスイーツと4種類から選べるドリンク付き。香り高い紅茶は、重厚なティーポットで提供される。ティーカップ2~3杯分は入っていて、たっぷり楽しめた。

オリエント急行のロゴがあしらわれたお皿は、資料をもとに、もともとオリエント急行の食器を作っていた会社に依頼して、本来の姿に復元した貴重なものだとか。

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この日いただいたのは、「苺のムース」。ふんわり柔らかなムースに、甘酸っぱいベリーソースやフレッシュないちごの果肉が際立ち、フランスの春の訪れを感じられた。
なんて幸せな時間なのだろう。

美術館内の売店で、お土産まで買っていただいた。

公時神社参拝

オリエント急行でフランスを満喫した後は、公時神社へ。

ここは金時山山麓に立つ神社で、平安時代後期の武士、源頼光(みなもとのよりみつ)に仕えて四天王の1人に数えられ金太郎のモデルになった坂田公時(さかたのきんとき)が 祭神として祀られている。

広々とした境内には雨上がり特有の澄んだ空気が漂っていて、自分はやはり日本人なのかと、自然と心が落ち着く。境内の一角には石でできた巨大なマサカリが据えられていて、金太郎らしさを感じることができた。

境内には10羽以上の鶏が放し飼いされているらしいが、この日は出くわさなかった。

4月3日午後4時、ローストビーフ等をさらにお土産に

全国的に有名な「相原精肉店」の代名詞とも言うべき逸品は、「紋次郎ローストビーフ」。

上質な和牛から手作りで仕上げられ、肉質・柔らかさどれも素晴らしい。翌朝の朝食でいただいたが、噛む度にお肉の旨みは本当に素晴らしかった。
私のお土産にと焼き豚も購入していただき、これまたいただいたことのないような美味で驚いた。

4月3日午後5時、箱根千石原プリンスホテル露天風呂へ

箱根千石原プリンスホテルは、箱根外輪山の雄大な山並みと、ホテルに隣接する大箱根カントリークラブの美しい緑を望む、大自然に抱かれたリゾートホテルだ。中世ヨーロッパの古城を思わせるホテル外観が象徴するように、館内も落ち着いた雰囲気でゆったりした時間が流れている。
このホテルは、箱根の家から車で3分、歩いても行ける距離にあるということで、田中さんご夫妻は日帰り温泉、夕食によく利用されておられるそうだ。

レストラン・ブラデュジュールでディナーをいただく前に、姥子温泉を源泉とする無色透明な単純温泉を楽しむことに。

露天風呂に浸かりながら田中勝さんと語り合っていると、またまた長風呂に。
私が知りたかった、田中さんと一緒に仕事させていただいてから、田中勝さんは東京に転勤。そして「リクルートフロムA」で40歳から55歳までの15年間、まさにフロムAの成長神話を創っていかれたのだが、私はその時代のことについてお聞きしたかった。
予想していた通り、「リクルートフロムA」の役員として、田中さんはビジネスマンとして、自由に、思い切り、仕事をやり切ることができたのだと。そして、それは社長の児玉さんが田中さんの思うようにさせてくれたからだと田中さんは振り返ってくれた。

すばらしい、最高の関係に、すでにすっかり温まっていた身体の中の心がたまらなく熱くなった。

任されるのは信頼されているからであり、任せるのは信頼しているからだ。その歯車が見事に噛み合って、リクルートフロムAは児玉社長と田中取締役が引っ張った15年間に急成長を遂げたのだった。

4月3日午後18時、箱根千石原プリンスホテルにて最高級牛しゃぶディナー

二日連続で女性陣を待たせてしまったが、風呂上がりにディナーと、夢のような時間は続く。

フレンチの技で味わう、新感覚しゃぶしゃぶコースは、箱根西麓牛を芳酵なコンソメにくぐらせていただくが、多めに頼んでいただいた肉は田中夫妻からも私にお回しいただき、〆には濃厚なチーズリゾット。最高、幸せすぎ。

ご夫妻が回してくださった肉まで平らげた私の腹は、今にも張り裂けそうだ。

4月3日午後7時半より、別荘リビングにてトークセッション

ひとしきり「春の時代」の思い出話を尽くした後は、それぞれの人生の「夏」の話に花が咲く。田中さんはフロムAの後、自ら会社「シーフォレスト」を創業。長年の盟友・山本さんや木村くんを歴代社長に選び、ビジネスマンとしての夏を思う存分に過ごしたという。
まびなのオーストラリアでの第二の人生は、アーティストとしても開花し、そして世界的ブランドのトップセールスへ。私は、経営コンサルタントに転身し、二人の子育てを完了後、両親を介護しつつの第二の人生へ。
それぞれがまだ、実りの「秋」の前。まるで「夏」のような輝きに満ちているような気がして、とても嬉しい。あっという間にまた日付が変わりそうになり、まびなと私は、別荘2階のそれぞれのゲストルームにて眠りについた。

4月3日午前8時、別荘ダイニングにて朝食

朝起きると、前日と同様に、田中さんご夫妻が朝食を用意してくださっていた(中央には相原精肉店の紋次郎ビーフ)。

美味しく、栄養バランスの取れた素晴らしい朝食を完食させていただいた後は、ウッドデッキに出て日向ぼっこと語らいのひととき。

ウッドデッキ上では、未来の話。
別れの時間が近づいていく、残り少なくなっていく時間を惜しむように、これからはこうして生きていく、それぞれがそんな未来への展望を語り合い、まびなも私も、箱根の家への再訪を願う。
「次回来たときにはこうしたらいいよ。」
「アトリエに使ってもらったらいいよ。」

田中さんから箱根の家の、戸締りの仕方まで教えていただき、度厚かましくも半分その気の私(笑)。

田中さんご夫妻も横浜のご自宅にお帰りになるということで、後片付けに忙しくされていた奥さんのお手伝いをほんの少しだけ。奥様、本当に申し訳ございませんでした。

4月4日正午、「よもぎ屋」にて昼食

箱根・仙石高原には春先になるとよもぎが自生している。

よもぎにはほうれんそうの10倍近くの食物繊維があり、アレルギーや高血圧にも有効だ。よもぎの香りを引き立たせるメニューが豊富に揃っている「よもぎ屋」。その名の通り、よもぎの香りを引き立たせるメニューが豊富に揃っている。
また、このお店の店主がめぐりにめぐって出会った餡が、御殿場のあんこ屋だったとか。あんぱん用のあんこなのだが、当店のメニューにマッチングしていたため、すぐに使用を決意した餡らしい。
私たちは、よもぎのみたらし団子と、餡団子、そして、甘酒(もちろんノンアルコール)で、早めの軽い昼食をいただいた。

4月4日午後1時半、乙女峠にてお別れ、餞別までいただいて

名残惜しいお別れは、あの「オリエント急行」も全面通行止めにしてなんとか超えてきたという乙女峠にて。乙女峠からの富士山の眺めはまさに絶景で、その秀麗な姿には「乙女富士」という名前がつけられるほど。

残念ながらこの日は雲が多く、上の写真のようには見えなかったが、「次回の楽しみということにしよう」と田中さんに言っていただき、私は胸を熱くした。

夢のような三日間は、あっという間に過ぎていった。

何から何までお世話になり、また、いただいたことのないようなご馳走の連続、お土産、さらにはお餞別まで。とんでもない散財をさせてしまった。

私はこんなにすごいおもてなしをしていただいたことがなかった人生で、うまくお礼も言えず、ただただ恐縮するばかりだったが、心からこう思う。

「ひな鳥は、最初に見る大人の鳥を親だと思う。だとすれば、出来の悪いひな鳥だった私は蔵野孝之さんと田中勝さんという、素晴らしい大人を上司とすることができ、育ての親と思うことができたことで、その後の人生が開かれたのだ。お二人のおかげで、私は人生の春を謳歌できたのだ。だから今度は、片方の親である蔵野さんと一緒に、箱根の家に押しかけたい」と。

その日まで、田中さん文惠さんお元気で。
本当にありがとうございました。