
仲良く富山湾に沈む夕陽を眺める見知らぬお二人を後方から撮らせていただいたが、443年前の春は、織田軍と上杉軍の「魚津城で戦い」の真っ最中。
いよいよ落城と察して自害した上杉の武将たちは、魚津城の天守からこの夕陽をどのような気持ちで見たのだろうか。
1582年3月11日から6月3日の約3ヶ月の間、上杉軍と織田軍とが魚津城を巡って攻防戦を繰り返した。
1582年の日本は、畿内(現在の京都、大阪、奈良)を抑えた織田信長が日本各地に兵を送り、天下統一へ向かっていた時期だった。同年3月に甲斐国(山梨県)の武田氏を滅ぼした織田信長は、同月11日に家臣の柴田勝家や前田利家に命じて上杉氏の魚津城をとり囲んだ。この時、織田軍4万に対して上杉軍は、その10分の1以下の4千弱。
この戦力差では勝負にならないと思われた上杉軍だったが、中条景泰を初めとする魚津城の守将13人は奮戦し城を守り続ける。
この間、春日山城の上杉景勝に助けを求めたが、武田氏を滅ぼした織田軍が信濃国(長野県)や上野国(群馬県)から上杉氏の本拠地であった春日山城を攻める動きを見せたため上杉景勝は魚津城を見捨てる形で退却した。
この時、上杉景勝は魚津城に対して「和議を結んで城を明け渡して良い」という内容の書を城に送っていたと言われているが、それでも魚津城の将兵らは降伏せず、最後まで戦った。
そして1582年6月3日、守将13人は自害し、魚津城は落ちた。
魚津城が落城したのは6月3日だが、この前日に大きな事件が起こっていた。
ご存知「本能寺の変」である。
この本能寺の変が魚津城を落とした織田軍に伝わったのは翌日の6月4日。
報告を聞いて織田方の各将は自分の領地へ引き上げていったため、上杉軍は反撃に出て魚津城を奪回している。歴史にたらればは無いが、もし、もう1日耐えていれば。
自害した魚津城の守将13人には、人生の続きがあったかもしれない。
直江兼続への書状
「魚津城の戦い」では、織田方に包囲されて危機的状況に陥った13人のうち12名の連名で、直江兼続宛に書状を送り、救援要請と現状を訴えていた。
この書状は「魚津在城衆十二名連署状」と呼ばれて残っており、内容は次のとおりであった。
「今月五日・十一日付の書状2通、昨夜戊の刻に松倉城に届き、謹んで拝見いたしました。当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げましたとおり、壁際まで取詰められて、昼夜を問わず四十日間にわたり攻められていますが、今日にいたるまで持ちこたえることができました。(しかし、)こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。このことを然るべく(景勝公へ)御披露くださいますようお頼みいたします。恐々謹言。」
戦いまでの流れ
魚津城は15世紀ごろ、山城である松倉城の支城として、椎名氏によって築城されている。永禄12年(1569年)に上杉謙信が椎名氏を攻略し、上杉氏が支配するようになる。
魚津城は、角川と鴨川に挟まれた沼地にあったため、地の利に恵まれていた。
また、この付近には平野部が少なく、越中・越後を往来するためには必ず通らなければならない地でもあった。
魚津は、上杉氏にとって越中進出のための侵攻の拠点であり、また、敵軍の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあったのだ。

(現地案内板より)
天正6年(1578年)、上杉謙信が死去する。
越後では、その養子である上杉景勝と上杉景虎が家督相続を争い、年あまりの長きにわたって「御館の乱」が起こって景勝が勝利するが、この間に上杉氏は、謙信の時代に築いた領土の一部を失うなど、勢力が衰えてしまった。
このような状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、越中、信濃、上野方面から越後への侵攻をうかがい始めるのだった
そして、冒頭に書いた「魚津城の戦い」に突入したのである。
現在、3か月に及ぶ激しい戦いがあった本丸跡は、大町小学校の敷地となっていて、城址碑が小学校の南側にある。

富山湾を望む道の駅「ウェーブパークなめりかわ」
北陸自動車道の滑川ICから県道51号線→一般道→県道1号線を通って北西に5km、 富山県北部の滑川市に「道の駅 ウェーブパークなめりかわ」はある。
目的地だった魚津城址で戦いのことを色々と考え、そのあと海岸沿いでぼーっと海を眺めていると、すっかり時間が経ってしまい、富山湾沿いを走る国道2号線を走って道の駅に向かったが、道の駅への到着が夕刻になってしまったが、この国道2号線の景色は、山側、海側ともに素晴らしい。

道の駅「ウエーブパークなめりかわ」は、富山湾にまともに面している。

道の駅の駐車場からは、桜越しの山々の景色が美しかった。


施設の海側に出て高さ2m程の堤防に上ると、一面の海の景色が楽しめる。
富山湾は蜃気楼の眺望が有名だが、3月下旬から6月上旬、晴天で気温が高く、4~5m位の北北東の風が吹く日に現れやすいそうだ。
蜃気楼を鑑賞できるベストスポットは富山湾全体が見渡せる魚津港周辺の海岸で、魚津市ではこの一帯を、名勝「蜃気楼展望地点」と指定している。
また、道の駅近くの滑川漁港から水揚げされた富山湾の幸、ホタルイカを味わうことができる道の駅でもある。

駐車場は、多彩な施設それぞれに駐車場を有している。道の駅の建物の前の駐車場は比較的コンパクトだ。




トイレは、コンクリートづくりの建物がいい感じに老朽化しているが、立派なものである。





休憩できる環境としては、眺めがいいだけに山側、海側ともに良好。






ホタルイカと海洋深層水の二大看板

道の駅「ウエーブパークなめりかわ」の施設としては、物産館、レストラン、ホタルイカミュージアムがある。
以前は深層水体験施設「タラソピア」という施設も存在していたらしいが、2023年7月に閉館したとのこと。

富山湾は、1000m以上の水深がある。
水深300m以下の領域には深層水と呼ばれる栄養が豊富で鮮度の高い海水が占めていて、 この深層水の存在によって富山湾は独特の生態系を維持していて、それゆえ富山湾だけの海の幸を有している。
その代表格がホタルイカだ。
滑川漁港から約1キロの海面は「ホタルイカ群遊海面」呼ばれ、絶好の漁場になっている。 道の駅の物産館ではホタルイカ、それを使った商品が多数販売されている。
ちなみに私はナマホタルが大好物で、生でいただくことにこだわるので、「ホタルイカ燻製」「ホタルイカ姿干し」「ホタルイカ酢漬け」「ホタルイカ沖漬け」「ホタルイカの甘露煮」など、加工品にはあまり興味がない。
このホタルイカ、道の駅のレストランでももちろん主役だ。
レストラン「光彩」では、「ホタルイカとキノコのパスタ」「ホタルイカのオムライス」 「ホタルイカのバジルきのこピザ」「ホタルイカのサラダ」など、多彩なホタルイカメニューを提供している。
物産館横にある喫茶コーナー「みちcafe」でも、ちょっとしたスナックとして「ホタルイカフライ」「ホタルイカから揚げ」を販売して人気を集めている。
このようにホタルイカを前面に打ち出したあ道の駅だが、隣接するほたるいかミュージアムでは日本で唯一、ホタルイカの発光ショーが行われている。



このショーが見られるのは毎年3月20日から5月下旬まで。
それ以外の季節はLEDライトを用いた再現ショーになっている。
