相生のまつり「ペーロン祭」が、道の駅「白龍城(ペーロンじょう)」という名の由来です。相生湾の最も奥に位置し、エンペラーオレンジの鮮やかな建物が異彩を放ち、全国的にも珍しい海の駅をも併設している道の駅です。
相生市は兵庫県の南西部に位置し、瀬戸内海に面し、もっとも古くは「万葉の心」を今に伝えるところです。海岸線は瀬戸内海国立公園に指定され、四季を通じて瀬戸内のおだやかさが実感できるということに関しては、おそらく万葉の時代からさほど変わらないのではないでしょうか。
道の駅 「あいおい白龍城(ペーロンじょう)」での休憩は、そんなおだやかな海と緑の山々を眺めながら、泡沫湯やサウナ・露天風呂など充実した設備を誇る6種類の天然温泉で日頃の疲れを癒すことができることが大きな特徴の一つと言えるでしょう。お風呂にはど根性大根「大ちゃん」の案内板があり、「ど根性大根大ちゃんの湯」としても人気です。
ど根性大根「大ちゃん」
2005年8月、相生市那波野の歩道からアスファルトを押しのけて出てきた大根を住民が発見した。緑の葉を大きく広げ、行きかう人たちに「アスファルトなんかに負けないぞ!」と元気を与えているようなその姿は、全国的に有名になった。
ペーロン祭とは
道の駅の名に採用された相生ペーロン祭(あいおいペーロンまつり)は、兵庫県相生市の相生湾特設会場にて毎年実施される、「ペーロン競漕」をメインとしたお祭りである。
原則、毎年5月の最終日曜日に開催され、前日の土曜日には「前夜祭」の花火大会が行われる。
端緒は、相生町(現・相生市)内にあった播磨造船所(現IHI)の長崎県出身の従業員が、1922年(大正11年)に社内行事としてペーロンを紹介したことに遡る。そして終戦までは毎年5月27日の「海軍記念日」に同社構内にある天白神社の例祭として行われ、ボートレースとともにペーロン競漕が行われていた。
戦後、相生市・商工会議所・播磨造船所の共催による「相生港まつり」が誕生。前夜祭として花火大会も実施されるようになり、1962年(昭和37年)には相生市・商工会議所・石川島播磨重工業(現・IHI)が相生ペーロン祭協賛会を結成。翌年から「相生ペーロン祭」となり、現在に至っている。
相生は「いしはり」の企業城下町でもある
相生市は瀬戸内海でも深く入り組んだ相生湾があり、古くから瀬戸内の航路であり、明治期までは瀬戸内海に面した典型的な漁村であった。
明治終期に、深く入り組んだ相生湾の地形を活かして、船の建造・修繕のための施設「船渠」(ドック)が完成。住民らは沸き立ち、「わしらのドック」と呼んで、何よりの誇りとしたという。
以来、造船業は相生の看板産業として発達し、石川島播磨重工業相生造船所の企業城下町として栄え、発展し、昭和37年には新造船建造量(年間進水量)でついに世界の首位に立った。
休憩所からも、偉大なる「いしはり」のごく一部が見える。
造船会社の名前は、播磨造船所、石川島播磨重工業などと変遷し、現在はジャパン マリンユナイテッド子会社のJMUアムテックとして依然巨大なドックを構えている。
話を戻して。
第二次世界大戦後に大型船の新造が禁止されて一旦は町の灯が消えかかったのだが、1951年10月18日の捕鯨船団の母船「図南(となん)丸」の進水式をきっかけに、相生は再び造船町として歩み始める。
図南丸とは、戦争末期に米軍の爆撃を受け、南太平洋の海底40メートルに沈没し眠っていたもの(第三図南丸)を播磨造船所が引き揚げに成功し、ドックでの改修を担ったものであった。この第三図南丸には完全な図面が残っておらず、実測で図面をそろえるなどした上、連日なんと2000人超が昼夜を問わぬ突貫工事に従事した結果、生まれ変わって進水にこぎつけた。当時はクレーンの争奪戦が起こるほど現場の熱気は凄まじく、播磨造船所の年間売り上げの約半分を要したこの大事業での技術力は国内外で高く評価された。船は「図南丸」と改名され、その後1970年までの長きにわたって日本の捕鯨を支えていく。
休憩施設としてどうか
この道の駅「白龍城」があまりにインパクトあるルックスをしているので、ついつい前説が長くなった。
駐車場は、建物を挟んで2ヶ所に分かれている。敷地全体としてはとても広い(というか、東西方向に長細い)
トイレも問題ないのだが、目立つゲートがある側(施設の西側)に駐車すると、トイレまでの距離はかなり遠くなる。これは敷地の問題があったのだろうが、不便を感じる点だ。
ちゃんとウォシュレットだし、トイレ自体に問題はない。
観光情報センターは、施設の中央にある。
特産品売場
氷ノ山などの山々から揖保川、千種川が栄養分を播磨灘に注ぎ込み、一年で大きく育つ「相生かき」が特産品の代表格。
純白のぷりぷりとした大きな身は濃厚で栄養満点。カキ特有の甘みと風味は絶品で、まさに海のミルクである。道の駅「あいおいペーロン城」では11月下旬から3月ごろまで相生かきを堪能できるが、その他の時期にはかきを使った加工品が売られている。
白龍城オリジナル塩味ようかん、相生矢野小河ゆず製品、相生名産ちりめんじゃこなども人気で、ほかにも多くの特産品が販売されている。
お食事処「和ダイニングまねき」
姫路駅名物「えきそば」で有名な「まねき」が展開する和ダイニング。相生湾を眺めながら和やかに食事が楽しめ、広い座敷もある。
和食の御膳や定食をメインとし、 相生名物である牡蠣を取り入れたメニューも多数取り揃えている。 そして、有名な「まねきのえきそば」が西播磨初登場だとか。
忠臣蔵を訪ねて
元禄14年(1701)3月14日、江戸城末の廊下で播磨赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、小刀で高家肝煎(筆頭)の吉良上野介義央に背後から小刀で襲いかかった。梶川与惣兵衛頼照が浅野を抱き止めたため、吉良は浅手を負ったものの命に別状はなかった。
しかし殿中での刃傷沙汰ゆえ、浅野は即日切腹、お家取りつぶしとなった。国元での最高責任者は、国家老の大石内蔵助。事件の一報を聞いた大石は、まず藩札(藩だけで通用する紙幣)の引き換えを行った。家が取り潰される際には、藩財は家臣たちに分与され、通常藩札は紙切れと化す。ところが大石はそれを6割で換金したのだ。この善政に領民は感激。領内は、藩が消滅する日まで平成を保ち続けた。
ところが事件から10日経って、吉良上野介が健在であり、尚且つ幕府からお咎めもないという情報が赤穂に届く。家臣たちは皆、吉良は浅野に討たれて死んだと信じていたので、この一報にいきり立った。
「城内での両者の喧嘩であるのに、どうして浅野家だけが処罰されるのか、喧嘩両成敗であろう」と。
3月27日から3日間、家士全員で会議を続けたが今後の対応に結論が出ず、決断は藩首脳部に預けられる。城代の大野九郎兵衛は「御家再興の可能性は、幕府の心証を悪くすれば潰える」として「積極的開城(城の明け渡し)」を主張したのに対し、大石内蔵助は「開城のとき、家臣全員が大手門に端座し、一斉に腹を切って御家再興を嘆願しよう」と主張した。吉良の健在に理不尽を感じていた家士たちは大石の主張を支持。自分の命を預けると、大石に神文(誓約書)を提出するものも60数名に及んだ。
しかし大石が過激な主張をして家臣たちに死を覚悟させた狙いは、幕府に対してい浅野家の覚悟を示すことで御家最高をはかることにあり、3月29日、大石は二人の家臣に自筆の嘆願書を持たせて江戸へと急行させた。書は赤穂城を受け取りに来る大目付の荒木十左衛門と榊原采女に宛てたもので、こう記されていた。
「主君の不調法により城地没収との御沙汰、謹んでお受けいたします。ただ、我々は吉良様が亡くなられたとばかり思っていましたが、ご健在であり、何のお咎めもないとのこと。そのため家臣たちが納得せず、城明け渡しに同意しません。年寄りがなだめておりますが、無骨者の多い家中ゆえ、いかなる事態が起こるか予測できません。何卒納得できる公平な裁定をお願いいたします」
これは嘆願書というより、脅迫文に近い。こうして大石内蔵助は幕府首脳部に対して勝負に出たのだが、大石が派遣した使いが江戸へ着く前に、大目付はすでに赤穂へ出立していたのだ。
大石はキッパリと計画を諦め、開城のための準備に転じた。家臣たちへ藩財の分配をおこない、浅野家の永代供養料を諸寺に納入。分配金については、高禄の者に薄く、薄禄の者に厚くし、自らは一銭も受け取らず、その高潔ぶりは諸人を感動させた。
4月18日、脇坂康照と木下公定の大群が赤穂藩領を包囲するなか、荒木と榊原の両目付が大石の案内で赤穂城に入り、検分をおこなったが、場内は見事に清掃が行き届き、諸道具も整理され、目録も全て完璧に作成されていたので、彼らは感じ入った。このおり、大石は両使に対し、御家再興の件を幕閣に伝えてくれるよう頭を下げた。聞こえぬふりをしていた二人は、大石の姿に打たれるものがあったのか、役分を超えて言上を約束したという。
こうして城受け取りの手続きは完了。翌朝、脇坂と木下の軍勢が入場して赤穂城は没収され、翌4月19日、赤穂藩は正式に断絶した。
その後も大石内蔵助は、過労で体を壊しつつも、あらゆるつてを頼り、惜しげもなく己の金品を費やして御家再興運動を続けたが、元禄15年(1702)7月18日、御家再興の一縷の望みも完全に途絶える。
ここにおいて、大石内蔵助は、この不公平裁定を糺すべく、同年12月14日、46人の浪士を率いて本所の吉良邸へ討ち入り、吉良の首をとり、亡き主君・浅野内匠頭長矩の墓前に供えたのである。
再建された赤穂城大手隅櫓。