
山田滋さんが逝ってしまわれてから、早いものでもう4年が経とうとしている今日は、2025年7月14日。
山田さんがリクルートの神戸支社長をされておられた時期に、リクルートに飛び込んできた阪本英嗣くんと金沢 尚子さんが山田滋門下生なら、おそらくリクルート神戸支社が輩出した偉人の一人に数えられる絹谷公伸さんは田中實門下生。そして私は、神戸を営業所から支社へと育てた田中勝門下生である。
このリクルート神戸支社「3世代」のメンツが、午後4時にJR芦屋駅待ち合わせ後、この界隈の飲食店、居酒屋、バーなどを9時間ハシゴして、1982年からの10年間の「リクルート神戸支社」を語り合った。
共通の話題はやはり山田滋さん。
阪本、金沢、絹谷、私と揃ったこのメンツは、山田滋さんにお世話になった順に並べたようなメンツ。
「いや俺だ」「私だ」という方は、全国各地にいらっしゃるとは思うが、この4人の「山田さん愛」はそんな皆さんに引けをとるとも思えない。
実はもう一人、山田さんにお世話になった男が居ると言えば居るのだが、酒癖が悪すぎてどうしようもないのでこの飲み会にはオミット。
山田滋さんとの内緒の関係
私以外の3人は、山田滋さんが上司というか大ボスだったが、実は私は山田滋さんと入れ違いで、彼をが直接私の上司であった時期はまったくない。
しかし、なぜ私までが山田滋さんとの思い出をたくさん持っているかというと、そこにはこんな事情があったことを暴露することになる。
山田滋さんは、神戸支社長であると同時に、神戸、姫路、京都、京都南、大阪北、大阪南、北浜、新大阪、本町(関西広企)という「営業所群」から成る「関西広告事業部」にあって、神戸と姫路の責任者でもあった。
ところが、山田滋さんは、その「関西広告事業部」の土屋洋部長が大嫌い。
「あいつの顔を見るだけで吐き気がして倒れそうになるんだよ〜」と言って、「体調不良」を理由に月に1度の大切なマネージャー会議をほとんど全部欠席していたのだ。
神戸営業所、姫路営業所は私の大切な古巣であり、山田さん欠席によって情報が得られず「不利な戦い」を強いられるのは一人のOBとして耐えられなかった。
何より、土屋洋部長の「山田憎し」の感情で、なんの罪もない後輩たちが低く評価されるのはあまりにも可哀想ではないか。
山田滋さんと私の、特殊な関係
当時はネットもメールも、影も形もない。
そこで、私は毎月この「関西広告事業部マネジャー会議」から数日たたない間に大阪から資料を持参し、大人気なく欠席を続ける山田滋さんに会議の詳細を伝えに行っていたのだ。
時間帯と場所は、夜の神戸の繁華街。
「うを勢」という寿司屋→「オリアナ」というカラオケ屋というのが定番コースだった。
え?要するに二人で、土屋洋の悪口を肴に(笑)飲んでいただけだろう、って?
そうとも言う。ハゲを隠そう何を隠そう、ハッキリ言っちゃうとそういうわけだ。
山田さんは、私の記憶に間違いなければさほど寿司を好む人ではなかったし、カラオケもそこそこだったと思うが、何せ山田さんは私の出張特別出血サービスを受ける弱い立場。
私の言いなりになるしかない。
私のワンパターンな店のセレクトに、黙って従っていただいたわけである(笑)。
こうして毎月最低でも1回、欠かさず2年もサシ飲みを続けていたわけで、そりゃあ、自ずと関係はどんどん深くなる。しかも山田滋さんは、大のゴルフ好き。共通の趣味で土日もしばしば一緒となれば、関係性はさらにズブズブに(笑)。
そして何より、山田滋さんと私は、何かにつけて気が合った!
金沢尚子さんと「同期の女性陣」
金沢尚子さんとも、私は一緒に仕事をしたことがない。
しかし、「SJ=中途採用情報誌」の優秀な営業パーソンだった彼女の同期入社には、同じ神戸の別部門「広告事業」で活躍した山内直美、大阪で活躍した高橋紀子、伊原由子(結婚後今井)、京都で活躍した安本英美(結婚後細見)、をはじめとする錚々たる女子社員たちがいたという話題が出ると、彼女たちの優秀さについて、金沢さん私はエキサイト。サシで語り尽くさんばかりの展開となった。
特に、旧姓・安本英美は、超がつくような「色男」、年下の細見と結婚したが、はっきり申し上げるとリクルートでの社内結婚の場合、圧倒的に女性の方が優秀かつ実績を上げている場合が多かったその中でも、「英美」の圧倒的会社貢献度は「細見」とまるで比較にならなかった。
リクルートは、女性が結婚後も仕事を続けるということに関しても「社会をリード」してきたが、バブルの時代あたりは、結婚を機に辞める選択をする女性も一定数いた。
そんなリクルートパーソン同士の結婚式の場では、「新郎の方に辞めて欲しかった」という声が「松」「竹」あたりのテーブルからは特によく聞かれたものである(笑)。
結婚しようよ
私はよくできた「英美」と、できが悪くて可愛がっていた「細見」との結婚式にも、入社して日の浅い伊原「由子」を上司のポジションを利用して(笑)口説き落とした「今井潤二&由子」の結婚式にも招待され参列させていただいたが、今井はその時点で管理職、さすがに立場を忖度されて「お前がやめろ」コールは起こらなかったが、英美の結婚式では「細見、お前がやめろ」がなんと祝辞で連発されるという異常事態となったことを覚えている。
誠に残念なことだが。
「英美」はまさに美人薄命、早逝してしまった。
彼女の早逝を惜しんでやまないのは、金沢尚子も私も同じ。英美の話は尽きない。
で、そんな金沢尚子本人はといえば、私の部下だった高橋紀子と全く同じで、今もバリバリ社会で活躍中。そう、リクルートの女性は、昔も、当時も、今も、とにかくめちゃくちゃ優秀なのだ。
ところで「結婚式」といえば、絹谷公伸くんの最初の結婚式、阪本英嗣くんの2度目の結婚式にも招いていただいた。
彼らの「結婚」および「その後」については、人のことは何も言えない私を含め、あまりにもいろいろありすぎて。
この3人の「人生いろいろ」については要約が困難なので、またの機会、またの投稿に先送りすることにする(笑)。
佐藤博幸くんと「おがわ」
さて 私は、1982年同期入社の佐藤博幸くんと「ニコイチ」で、田中勝支社長に育てていただいた。
今は「完全アウト」「ブラック」だが、私と佐藤くんは毎日、朝8時半の朝ミーティング、朝礼から、夜10時ぐらいまで働いて、そこから「おがわ」という料理屋さんに、ほぼ毎日出動して痛飲。
その場では、優秀で申し分ないのに可愛さ余ってか4年後輩の絹谷公伸くんらメンバーたちを片っ端から詰めに詰め、私は深夜1時前の電車で帰ることもあったが、その終電を逃すと、徒歩で帰れる佐藤くんのマンションにしばしば転がり込んだ。
二人は3時間ほど抱き合うようにそこで寝て、朝飛び起きると意識朦朧のまま神戸特有の急坂を転がるように走って出社したが、毎朝8時半のミーティングに遅刻することは皆無だった。
そんな二人、私と佐藤くんとを、周りは「ベトちゃんドクちゃん」と呼んでいたそうだ。
そんな佐藤博幸くんからの電話が久しぶりに鳴ったのは、3月のことだった。
「おがわのお母さん(女将さん)が、死んでしまったよ〜」
二人が毎日のように通った「おがわ」の女将さんが死んだことがショックで、泣きながら私に電話してきたのだった。
女将さんが亡くなられたのは、90歳を迎えるはずだった誕生日の10日前。享年89歳だった。
もちろん私もそうだが、佐藤くんにとって「おがわ」は本当に特別な存在であり、女将さんは、佐藤くんにとってもう一人の母親でもあったのだろう。
1日に2度も号泣するした「泣き虫」
佐藤くんは当時からよく泣く男だったが、私が最初に号泣させたのは、確か1983年の佐藤くんの誕生日だった。私はお気に入りの「紅宝石」という中華料理店を予約。予約時点でこの店の看板料理「カエルの唐揚げ」を注文し、佐藤くんに「最高級の唐揚げ、俺からのプレゼントや」と食べさせたのだ。


偏食が激しく、「カエル」とわかっていると佐藤くんは絶対に食べないとわかっていたので、そういう「仕込み」をしたわけだが、彼は「美味しい!こっしゃん(佐藤くんは私を常にそう呼んだ)、ありがとう!」と涙を流して喜んでくれた。
「こっしゃん、これ、何の鳥?今まで生きてきて食べたことない美味しさや、最高級の鶏なん?」
と佐藤くんが感激の涙を流しながら聞いたので、まあ、この際、嘘は良くないだろうと。
その唐揚げがカエルだと告げると、彼の顔面はたちまち蒼白となり、脱兎の如くトイレに駆け込んだ。
実に長いトイレだったが、出てきた彼は、あたり構わず泣き叫んだ。
「こっしゃん、ひどい〜」とや。
10年間で3度も。ヤドをカリ直して
阪本、金沢、絹谷、私とで足掛け2日にわたって痛飲した7月15日。
私は、1982年からの10年の、リクルート神戸支社の歩みを思い出しながら、田中勝さんのご指導を受けたリクルート神戸営業所があった「第一生命ビル(多分建て直された?)」、支社に昇格してより広い場所に移った「モードオリオンビル」、そして念願の自社ビルとして建設されて移った「リクルート神戸支社ビル=現在のIMONビル)」を、順にまわった。
下の写真は、ヤドカリが成長とともに大きな「宿を借りる」が如くのリクルート神戸支社ビルの変遷である。







5人の「英霊」に献杯
その後、山田さんとの思い出がいっぱいの「うを勢」へ。



ここで、山田滋さんに献杯。
この店の後、二人で行くとほぼ決まって佐藤博幸くん率いる神戸支社のメンバーたちと合流した「オリアナ」にも足を運んだ(今はカラオケ館)。
そして、佐藤博幸くんと抱き合うようにして寝た彼のマンションへ。

佐藤博幸くんが1日に2度も号泣した「紅宝石」は、佐藤くんが住んでいたマンションに近い。

そして、最後は「おがわ」へと向かった。


「おがわ」では、山田滋さんの干支一周分年上の「おがわの女将さん」と、この店が大好きだった山田滋さんにまず献杯。
同じくこの店で一緒に飲み、語り合い、そしてすでに他界したリクルート神戸の先輩たちは、「人教」の横山さん、榊昌彦さん、そして「JJ」の松村修さん。
ブレーンさんでは神戸の柱となってくださった上森秀樹さん、辻本丞治さん、日写の渡辺部長、オール出版・吉田さん。大阪から神戸を支えてくれた林海洋さん、南谷明美さん、森田さん、藤野さん、池田さん、原さん、山敷さん。
リクルート神戸支社で、部門や立場を超えて私をご指導いただいた偉大で愛すべき先輩方に、改めて感謝。
お一人おひとりのお顔と、いただいたお言葉とを思い浮かべながら、お一人おひとりのご冥福を改めて祈り、献杯した。

そして、あの頃からの43年間、まったく変わらぬ「おがわ」のメニューを私は3つ覚えていたので、それらを注文した。
まずは、クジラのフライ。

次に、鰻の蒲焼!

そして、ジャンボおにぎり!


天から滝のような涙が落ちて
メニューもそうだが、当時から43年間変わっていないことがもう一つ。
厨房で店を支え続けてきた「チーフ」だ。
チーフも74歳、来年からは後期高齢者だ。

いつまでもお元気で!
チーフとハグしたあと店を出ると、ちょうど日付が変わって7月16日。
毛がほぼ無い私の頭頂部にぽつりぽつりと冷たいものが落ちてきた。
天を見上げた次の瞬間、それはたちまち「激しい雨」に変わる。
あゝ、先輩たちの「涙雨」だよ。
それも、泣き叫ぶかのような、「豪雨」ならぬ「号泣」ではないか。
私は天国から落ちてくる滝のような涙に、容赦無く打たれた。
。なのに、なぜ
わが良き友よ