六甲山、有馬温泉へは道の駅「神戸フルーツフラワーパーク大沢」からGo!!(トイレ△仮眠✖️休憩△景観○食事✖️設備○立地◎)

道の駅に入るのにこんな大仰なゲートを潜ることって、滅多にないでしょう。
いかにも、「入場料とりますよ」という雰囲気がありますよね。実際、私が子育てをしていた頃は、道の駅ではなく「フルーツフラワーパーク」への入場料?駐車料?として徴収されていました。
安心してください。とられませんよ、今は。
このゲートを潜って、すぐ左手に「道の駅 神戸フルーツフラワーパーク大沢」があります。右手は、一日中遊べる神戸フルーツフラワーパーク(本体)ですが、もちろんこれは道の駅ではありません。

「道の駅 神戸フルーツ・フラワーパーク 大沢(おおぞう)」は西日本最大級の道の駅で、ホテルに温泉、遊園地、バーベキュー場、カフェ、直売所など、もりだくさん、などと紹介されているようですが、休憩施設としての道の駅はその一部で、こうした紹介は紛らわしいですね。

お子さん連れあるいはカップルとかで、遊びまくりたいならとても良い施設ですが、私のようなおひとり様ドライブでのトイレ休憩や仮眠にはあまり向いている道の駅ではありません。
ただ、六甲山頂へと駆け上がる前、有馬温泉に向かう途中の休憩場所としては最高です。

滞在型の道の駅

道の駅のコンセプトではなく、パーク全体のコンセプトということだが、ここは「花と果実のテーマパーク」である。
北神戸の豊かな自然に囲まれながら、中世ヨーロッパのルネッサンス様式の美しい建物や庭園を中心にさまざまな施設が点在。園内では四季折々の花を鑑賞でき、季節ごとに花壇の植え替えが行われていて、確かにいつ来ても花は美しい。

fruit-flowerpark

トイレ休憩や仮眠するだけでなく、

せっかくの大規模施設が隣接しているので、

それを道の駅全体と捉えれば、ここは間違いなく「日本最大級の滞在型の道の駅」である。

駐車場横の「遊園地 神戸おとぎの国」は、お子さん連れにはオススメ。
フルーツのゴンドラがかわいい観覧車やジェットコースター、迷路など子どもは大喜びのアトラクションばかりだが、普通の道でも迷路に感じがちな老人には向いていないだろう(笑)。
入場料は無料で、乗りたい乗り物の料金だけを支払う。

道の駅そのものは小さい

道の駅そのものは、このテントの奥の平屋の建物だけ。
トイレの便器数からも、「道の駅」そのものとしてはさほど大きくはないことはわかる。

その割に、駐車場が馬鹿でかい!
この写真と同じ規模のものがあと3つあり、この日のように土曜日の好天という条件下でも、車の駐車は全く問題ない。遊園地などからの歓声も、奥の方に停めればほとんど聞こえない。
ただ、何せたくさんの車が並び、両隣を含め出し入れはあるので、仮眠するには落ち着かないかもしれない。平日は逆にスカスカすぎて、快適を通り越した落ち着かなさを感じるかもしれない(笑)。

六甲山頂までは30分、夕方に着いて夜景も楽しむのがベスト

の「道の駅 神戸フルーツフラワーパーク」からは、30分程度で山頂まで一気に駆け上がれる。

これらは六甲山頂から見える神戸の街だ。
色々な顔があるが、一日中いると流石に退屈なので、夕方に到着して六甲山頂からの絶景を楽しんだ後、日が暮れたら摩耶山へと移り、100万ドルの夜景までをゆっくり楽しむのがベストだと思う。

六甲山頂から20分も走れば着く摩耶山

摩耶山からは、また違った景色が楽しめる。ロープウェーの終点の一つで、これに乗って観る景色もこれまたなかなかのものである。

ちなみに、摩耶山といえば、マヤカン。
マヤカンこと「摩耶観光ホテル」は、廃墟マニア垂涎の、廃墟中の廃墟である。

この写真は46年前、まだかろうじて営業していた摩耶観光ホテルの窓辺でくつろぐ私だが、この同じ部屋が

このような状態になり果てたのはすでに15年前。
マヤカンの歴史は、1929年(昭和4年)11月の開業に端を発する。
鉄筋コンクリート造で、軍艦を連想される外見から「軍艦ホテル」と呼ばれた。1944年(昭和19年)に第二次世界大戦の激化により、ホテルの営業は翌1945年(昭和20年)に休止となるが、1961年(昭和36年)に全面改装の上で再オープン。内装は1959年(昭和34年)春に大阪で解体された豪華客船「ふらんす丸」(元フレンチ・ライン「イル・ド・フランス」)より装飾品などを買収して改装された、実に素晴らしいものだった。

その後1974年(昭和49年)頃より学生のゼミ合宿やサークル合宿専用の「摩耶学生センター」として転用されていた1978年から3年間、当時学生だった私たちも利用した。震災前の1993年(平成5年)に学生の合宿所としての使用も停止され、その後の阪神・淡路大震災で倒壊こそしなかったものの、建物自体に大きな損傷が出ており立入禁止となり、ホテルの脇を通っていた登山道も通行止となって、今は近寄ることもできない。

距離、標高、海岸線の3つが美しい夜景の3条件

脱線したが、夜になったらぜひ足を運んで欲しいのが、六甲山系で最も有名な摩耶山の展望スポット「掬星台」だ。
日本三大夜景スポットといえば、北海道の箱館山、長崎の稲佐山、そして神戸の六甲山系、とりわけ「掬星台」から眺める夜景というのが定説だ。

星を散りばめたような美しさはいずれも甲乙つけ難いが、これらの美しさにはどうやら3つの条件が揃うことが必要らしい。

まずは市街地からの距離である。函館、長崎、神戸はいずれも坂の街として知られるように、海岸部からすぐ山になり、平地部が狭い。展望スポットは山の上だが、市街地との直線距離が近いのだ。六甲山系で最も有名な摩耶山の展望スポット「掬星台」は足元が崖になっていて、まるで真下に市街地が見下すようだ。「掬星台」の名の通り「手を伸ばせば星を掬えそう」なのである。市街地と距離が近いということは、2つ目の条件、標高はさほど高くないということでもある。函館山は334メートル、稲佐山は333メートル、摩耶山は少し高くて700メートルあるが、いずれも1,000M級の山ではない。あまり高い山からだと下界は霧に霞んだり、そもそも遠いから街の灯りがはっきり見えない。近すぎると、広告看板が読めてしまったりして夜景としてあまり美しくない。一つ一つの灯が適度に粒立って見える程度の距離、標高のバランスが、美しい夜景の重要な条件となる。
3つ目の条件というのが、個性的な海岸線。ある程度の距離から見れば、日本中どこでも都会の灯はそこそこ綺麗に見えるだろう。しかし、この個性的な海岸線ことが、「額縁」に入れてサマになる三大夜景を三大夜景たらしめるのだろう。
摩耶山からの夜景の場合、眼下に人工の六甲アイランド・ポートアイランドの幾何学的な線、左側にはそれと対比するように、大阪湾へと続く曲線が美しい弧を描きながら伸び続けている。自然と人工物が混じり合った独特の海岸線が、これを100万ドル、今では1000万ドルというキャッチフレーズがつく夜景へと昇華させているのだ。

六甲山からの景色

100万ドルから1000万ドルへ

六甲山系の夜景が、初めて「100万ドルの夜景」と呼ばれたのは1950年代のこと。戦後の復興期に六甲ケーブルを運行する六甲摩耶鉄道(現・六甲山観光)が、レジャー客向けのキャッチコピーとして打ち出した。関西電力がこのキャッチに目をつけ、昭和28年(1953)に、六甲山から見える夜景の灯を大阪、尼崎、芦屋、神戸の4市として電灯の数を試算し、その月額の電気代を当時のレート(1ドル360円)でドル換算したらちょうど100万ドル強となり、後付けながらキャッチコピーの根拠は示された。

さらに2005年、六甲摩耶鉄道が再度試算したところ1000万ドルをゆうに超えたという。こうして、今は「1000万ドル」が六甲山系の夜景の価格?となっている。

そもそも六甲山とは

六甲山とは、神戸市の北側に東西約30kmにわたって続く山地の総称である。その最高峰が標高931メートルの六甲山で、標高801メートルの湯槽谷山や標高702メートルの摩耶山など複数の山々が連なる断層山地である。
かつてこの一帯は海底にあり、ジュラ紀の地殻変動で陸地となった際は、その時にはユーラシア大陸の東端に位置していたが、約1億年前の白亜紀に、大量のマグマが噴出して一帯には阿蘇カルデラとほぼ同規模のカルデラが3度にわたって形成されたという。その痕跡として、山地北側に広く流紋岩が分布している。
白亜紀の終わり頃の約7000万年前には、地下のマグマが冷却されて花崗岩がつくられ、六甲花崗岩と呼ばれる地盤となったが、御影石として広く石材に使われている。
その後日本海が拡大し、1600万年前ごろに日本列島はおおよそ現在の位置に落ち着くが、この頃には西日本には伊勢湾から大阪湾を経て島根県、日本海へと続く「古瀬戸内海(第一瀬戸内海)が広がっていた。
それが陸化したのが約500万年前。六甲山北側にある三田盆地あたりには、湖が形成され他痕跡が残っているが、この頃大阪湾は今よりも陸地まで進入していて、西宮あたりは大阪湾の海の底だった。

その後大きく地殻変動したのは約100万年前。低い丘だったこの地域に、西と東の両方から強大な圧力が働き始め、陸地よりの大阪湾海底がどんどん上昇。沖合は激しく沈降し、上昇部分は隆起しながら丘を押し上げて、六甲山を形成していった。この地殻変動は現在も続いており、「六甲変動」と呼ばれている。

1995年に起きた兵庫県南部地震では六甲山山腹に多くの斜面崩壊が起きたが、これは六甲山の基盤となていた花崗岩がこの「六甲変動」によって破壊されて脆くなり、風化作用も受けてできた「真砂土」が原因だった。
六甲山形に原生林が広がっていたのは、弥生時代に稲作農耕が始まるまでのこと。山頂付近にはブナやミズナラ、標高600〜8ー600〜800メートル付近ではモミやコウヤマキなどの針葉樹と紅葉樹が交わる混交林が広がり、中腹から山麓にかけては照葉樹林に覆われていたが、農耕が始まり集落ができると、山麓の照葉樹林が伐採されて、アカマツ中心の二次林に覆われていき、現在に至っている。

有馬温泉へもらくらくアクセス

さて 有馬温泉は、日本三古泉の一つ(日本最古)とされ、褐色の名物湯「金泉」と、無色透明な「銀泉」の異なる泉質を持つ湯が楽しめる。

この有馬温泉にも、道の駅「神戸フルーツフラワーパーク大沢」から向かうとすぐに着ける。

豊臣秀吉と正室ねねに愛されたことでも有名な有馬温泉。

温泉地を相撲の番付に見立てて格付けする「温泉番付」では、現存するかなり初期の「諸国温泉効能鑑」の中で西の大関が有馬、関脇が城崎とされている。当時の相撲に横綱はいなかったので、つまり有馬温泉は江戸時代から西のナンバーワンとされていた。
伝説では神代の昔、大己貴命と少彦名命が泉源を発見したとされ、7世紀に舒明天皇や孝徳天皇がこの地に行幸したことが日本書紀と釈日本紀に記されている。

古い話はこのくらいにして、有馬温泉の泉質について。
有馬温泉には茶褐色の金泉と透明な銀泉の2種類の湯がある。金泉は、有馬温泉古来の鉄分と塩分を含むとろりとした泉質で、保湿・保温効果に定評がある。
銀泉は、炭酸泉でさらりとした湯ざわり。飲んだことはないが、飲むと食欲増進効果があるとか。
内湯に両方の湯を引いている旅館もあるが、泊まらずにそれぞれの湯を引く公共の外湯で「金の湯」「銀の湯」をハシゴするのも安上がりでオススメだ。